校舎の外へ出る頃には、すでに辺りは暗くなり始めていた。最近になってようやく冷たさを感じ始めた風が、秋の本番を感じさせる。
残暑の厳しさが続いた九月とは打って変わって、十月に入ってから急に冷え込みだした。油断した同級生が数人、風邪で休んでいる。
「じゃーねー」
「明日は遅刻すんなよー」
自転車で帰る者。バス停へ向かう者。それぞれがバラバラと散ってゆく。千佳は直美と一緒に自転車置き場へ向かった。
「ねぇ、直美はどっち選ぶ?」
「私は…… 投票するの辞めとくよ」
「え?」
千佳のクラスの自転車置き場には、もう二人の自転車以外は残っていない。
「だって、例えば私が美和に投票したとしてね。もし菊池くんが会計になったとするじゃない?」
ふむふむ
「そしたら菊池くんは、部長に選ばれなかった会計ってことでしょう? 例え当選したとしても、それってやりにくくない?」
千佳は目を丸くし、やがてクククッと笑った。
「何よ?」
「だって直美、もう部長になった気でいるんだから」
―――――っ!
絶句する直美。
暗くてよくは分からないが、きっと頬は真っ赤だ。
「そ… それは、もしもの話だって。あっ ちょっと、いつまで笑ってるのっ! もういいっ 一人で帰る!」
「あっ、ちょっと待ってよ」
笑顔に滲む涙を拭きながら、慌てて千佳は自転車の鍵を外そうとした。
?
「あれ?」
「どしたの?」
すでに鍵を外して動き出した直美が、まだ不機嫌そうな顔で振り返る。
「鍵がない」
「マジ?」
「マジ」
いつも入れているはずの上着のポケットにも、スカートのポケットにもない。
「落としたんじゃない?」
「え? そんなことないって。音楽室で上着を脱いだ時は入ってたもん。音したからわかる」
「じゃあ、帰りに上着を着る時は?」
千佳は全身の動きを止めた。闇の中のどこか一点を見つめるように、しばらく動かない。
「わかんない」
「じゃあ、音楽…」
直美の言葉を待たずに走り始める。
「ちょっと、私これから塾なんだけどっ」
「先帰ってていいよ!」
友の言葉を背中で受けて、必死に後ろ手をヒラヒラさせた。
暗闇の中に鈍く光る。
「あった」
そっと呟いて腰を屈める。
音楽室で上着を脱いだ後、それを手に持ったまま楽譜を探しに準備室へ入った。そこで積み上げられた教科書に躓いた覚えがある。崩れる教科書の山が出した凄まじい音に、落ちた鍵の音がかき消されてしまったのだろう。
直美に言ったら笑われるな
自転車置き場であれほど笑い転げなければよかったと、少々後悔もする。
もうすぐ施錠の時間だろう。見回りの先生に見つかると厄介だ。早く出なければ。
そう立ち上がろうとした時だった。
ガラガラッ
扉の音。
先生?
思わず床に這い蹲る。そのまま机の下にもぐりこみ、上目づかいで扉を見る。見えるのは相手の足元だけ。女子生徒ということしかわからない。
誰だろう?
だが、こちらから姿を現す勇気はない。
カタカタッ
軽くて硬いものの音がしばらく続いたが、女子生徒は千佳に気づくことはなく、音楽準備室を出た。そうして今度は、隣の音楽室で音がする。
ポウッ
千佳や女子生徒が入ってきた廊下側の扉とは違う、音楽室と準備室を繋ぐ扉。その隙間から漏れる明かり。
カタカタと、こちらでも何やら置いたり立てたりするような音。
と…
♪♪〜…
突き抜けるような発声練習。
声で、真壁だとわかった。
腕時計を見るが、暗くて見えない。
こぼれる明かりで見ようと、扉のそばまで移動する。真壁の声が、再び響く。
♪ ♪♪〜…
今度の定期合唱会の曲。その中に、真壁のソロがある。
彼女に気づかれずに部屋を出ることなど容易だが、どうしてもその場から動くことができなかった。真壁の歌声は、耳を傾けずにはいられない。
まるでその場のすべてを包み込むかのような、深みのある声。
真壁の声のすばらしさは知っている。だが、この歌声は違う。
なんだろう?
なぜだが、胸が痛くなる。
本当に、なんでこんな学校に入ったんだろう?
だがせめて、真壁がこちらの部屋へ移動してきても見つからないような場所へ隠れていた方がいいだろう。
再び床を這って出口へ移動しようとした時。
キシィ
またしても、動けなくなる。
這ったまま上目で見る。今度も準備室に人影。だが、足音はほとんど聞こえない。相手もなにやら警戒しているようだ。
床に這う千佳には、やはり相手の足しか見えない。その動きもずいぶんノロい。お陰で相手に気づかれることなく、再び机の下にもぐりこんだ。
「デカイ声だな」
「だろ」
どうやら二人組。声からして両方とも男。声を潜めているので誰かはわからない。二人とも、音を立てぬよう、それぞれ椅子に腰掛けた。
カサカサと、紙の擦れる音。
千佳は心内でため息をつく。
もし床にでも座られたら、千佳の存在はバレてしまう。別に悪いことをしているワケではないが、なんとなく今は、見つかりたくない。
「火曜日と木曜日はいっつもあんな風に歌ってる。顧問に許可もらってるらしいから、ワザワザ咎めにくるヤツもいねぇしな。だからオレらが忍び込んだのもバレないってワケ」
「山分けするには恰好の場所ってワケか」
クスクスと笑う。
カサカサカサ…
擦れた音が断続的に聞こえる。
山分け?
「でもよぉ、よくこんな場所知ってたな。あの真壁って女がこんなことやってるの、他の部員だって知らねぇんだろ?」
「別に。たまたま以前忍び込んだ時に知っただけだよ」
心臓の動きが、少しだけ早くなる。
片方の男。聞いたことのあるような声。
カサカサ…
ふっと、歌声が止まる。それに合わせて二人の会話も止まる。だが、真壁がこちらに移動してくるような物音はしない。
「おい菊池、声が止まったぞ」
「休んでるだけだろ。ビビるなって」
暗闇で目を見張った。
菊池くんだ。
「で? 捕まる前まで組んでた相棒はどうしたよ?」
「オレが捕まったんで、ビビってあっさり身を引いたよ」
「で? オレに声かけてきたってワケ?」
「金の持ち逃げ役がいるからな?」
「オレは実行犯にはならねぇぞ」
「っんなコト、期待してねぇよ」
背中に寒気を感じた。部屋が寒いからというワケではない。
カサカサは、紙幣を扱う音。
菊池は、常習犯だ。
今もどこかで、何かをやらかしてきたのだ。
それがまた偽札絡みなのか、万引きなのかひったくりなのかわからない。でも、法を犯している。しかも、何の罪の意識もなく。
「ほんの出来心だって」
「警察でビービー泣いて謝ったってよ」
そんな噂話から造られた菊池像が、砂のように消えてゆく。
「そう言えば菊池、合唱部の会計に立候補するって?」
「おうっ」
菊池が楽し気に答える。
「会計になりゃ、部費は使いたい放題よ。ウチの部はタルいヤツらばっかだからな。部費が減ろうが増えようが誰も気づかないって」
「気づいたら?」
「気づいたら謝まりゃいいって。泣いて侘びりゃ、取った金返せなんて言わねぇよ」
「言われたら?」
「言われたって、返す金がなけりゃ、返せねぇだろ? 何だったら少年院に入ったっていいんだ。数年したら出てこれるんだからよ」
「でもそんなんなったら、出てきてもマトモに生きてなんていかれねーぜ」
「反省してるって見せれば、大抵はどっかの係りの人間が仕事見つけてきてくれるってよ。捕まったヤツらを受け入れる職場なんて、いくつか用意されてるんだからさ」
「お前って…」
やや呆れたように絶句する。そんな相手に対して、菊池は鼻で笑ったようだ。
「世の中そんなもんだって。何でもやっちまったモン勝ち。見つかったら詫びりゃいいのさ。人さえ殺さなけりゃ大したことねーよ」
誰も知らない。
今まで知らなかった菊池が、今ここにいる。ここにいるのが本当の菊池。誰もそれを知らない。
こんなことって…
「それにさ、どうせやるなら今のうちだって。二十歳超えたら名前出るしな」
「未成年だって、今はネットで名前とか顔写真が流れるぜ」
「かまわねーよ。流れたってみんなすぐに忘れちまう」
引きつるような、喉の奥から吐き出すような笑い声が混じる。
「似たような犯罪なんて、次から次に沸いてくるんだ。一ヶ月前の事件なんて、ほとんどの人間は覚えてねーよ」
千佳はただ、暗闇の中で混乱する。
どうしよう
だが、千佳にはどうしようもない。今ここで姿を見せて菊池を罵倒するか? だが相手は男二人だ。何をされるかわからない。
っと
「おい、女の声が聞こえねーぞ」
そういえば、真壁の歌声がしばらく聞こえない。
「ひょっとして、オレらの話、聞かれてんじゃねーの?」
「まさか」
菊池はそう言いながらも、立ち上がる。
「でもま、出るか。金も分けたし」
そう言って出口へ向かうと、音を立てずに扉を開ける。相手が慌ててそれを追う。
「おい! でも聞かれてたらマズイんじゃねぇーか?」
菊池は足を止めたようだ。
「別に、聞かれたからどうだっていうんだ」
まったく動じた様子はない。むしろ楽しそうでもある。
「あの真壁って女、嫌われてるんだぜ。誰もあいつの話なんか信じねーよ」
そう言い切ると、あっという間に立ち去ってしまった。
彼らが完全に離れてしまったとわかっても、千佳は動けずにいた。
菊池は明らかに部費狙いだ。それは間違いない。だが、他の部員はそれを知らない。
偽札事件は出来心で、今は心から反省してると思っている。菊池の態度に理解を示し、会計を任せようと思っている者もいる。そんな彼らにどう伝える?
今聞いたことをそのまま伝えたところで、果たして通じるだろうか?
「誰も信じやしねーよ」
菊池はシラを切る気だろう。
物的証拠は何もない。警察も…… 大人を巧妙に騙してきたのだ。相手の方が一枚も二枚も上手。
……………
再び響く真壁の声。
無様に焦る千佳を笑うように、ゆったりとしたソプラノが辺りを魅了した。
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