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夜桜幽霊
誘木 溟

 高校に入学して新しい生活が始まった頃には、すでにその噂は市内中に広まっていた。
 特に俺の入学した高校は特別。なぜならその場所が、つい一ヶ月ほど前に事故死した在学生の、事故の現場だからだ。幽霊騒ぎは、その生徒の死の直後から広まりだしたらしい。
 街の外れにある小山の上の桜の木。杉の木に混じって一本だけのその桜はけっこう立派で、地元ではちょっと有名だ。その木の根元に夜毎、幽霊が現れるという。しかも少女の。
 事故死した生徒は男だった。男の幽霊が出るというのなら、間違いなくその生徒の幽霊だと騒がれるだろう。だが、女となると誰もが首を捻る。
 実はその生徒は女だったのではないか? とか、女装の趣味があって、事故に遭った時も女の恰好をしていたのではないか? とか。
 桜の季節以外は閑散とした小山の頂上が、四月下旬になっても人の数が減らない。ほとんどが肝試し気分の中高生だという。新入生歓迎のイベントと称して肝試しをやる部もでてきて、学校は慌てて規制を設ける始末だ。だが、幽霊ツアーは一向に減る気配を見せてはいない。昨夜も、我がクラスが幽霊ツアーを催行したらしい。俺も誘われたが、丁重にお断りした。
 別に怖いワケではない。幽霊なんてまさかいるはずもない。かと言って、無関心というワケでもない。ただ、数人で行ってみるなら付き合えるが、クラス全員で行くとなると、少々億劫にも思えてしまう。そもそも、集団生活というのはあまり得意ではない。しかも入学してまだ二週間そこそこだ。話のできるヤツもそういない。友達を作る良い機会だと言えばそうだが、生憎と俺はそう社交的でもない。もちろん彼女もいない。今までもいなかったし、これから出来るとも思えない。
 それでも入学した当初は、新しい生活に心を弾ませ、どんな友達ができるんだろうと、ドキドキもしていた。でもそんなの、二日で萎えた。
 高校に入学したからといっても、中学の時と違うのは、通学距離と制服とまわりの顔ぶれと学習内容くらい。それ以外は、何も中学とは変わっていない。
 そう考えたら、なんとなく気が抜けてしまった。向こう三年間の未来が見えてしまったような気がした。中学では高校入試を目標にしていたように、今度は大学入試中心の生活が始まるのだ。
「三時間も待ったんだぜ!」
 箸を振り回しながら、同級生の一人が不愉快そうに声をあげる。ご飯粒が後ろに飛ぶのが見える。俺達3人は、同じ中学出身の好で昼食を一緒に取るようになった。
「せめて影でもありゃあさ、雰囲気ってもんも出るのによ」
「見逃したとか?」
「それはないと思うよ」
 俺の言葉にもう一人が反論する。
「あんな真っ暗だからな。真っ白い何かがいたらわかると思うよ」
 噂ではその幽霊、全身真っ白の服を着ているのだとか。
「そんなに暗いの?」
「街の灯りが届かないこともないけど、桜の後ろから逆光みたいになってて、真っ暗より不気味だな。桜が盾になってるから、ちょっと離れたら真っ暗だし」
 桜の木へ行く道もほとんど整備はされていない。さらに桜のすぐ後ろが崖になっているので、近くまでは近寄れないように金網が張ってある。夜桜の写真を取りに来た人は邪魔だと眉をひそめるそうだが、市としては取り払うつもりはないらしい。
「おととい二年生が行った時も、結局見えなかったらしいぜ。もう出ないのかな?」
「四十九日ってのが過ぎたらさ、成仏しちまうんじゃねぇの」
「へぇ、もう四十九日って過ぎたの?」
「知らん」
「そもそも、本当に死んだ先輩の幽霊なのか?」
「他に考えられるか?」
 喧々諤々と熱い論議を続ける同級生を、ぼんやりと聞いていた時だった。
「おい、堂島」
 振り返ると、同じクラスの男子生徒が二人立っている。
「ちょっと」
 雰囲気からしてあまり穏やかな話とも思えなかったが、断る理由もない。廊下に出ると、冷たくない風が喉をなでる。
「お前、昨日の幽霊ツアーに来なかったな」
「あぁ」
「俺らのツアーが気に食わねぇってのかよ」
 あのツアーの主催者を、今はじめて知った。二人は入学当初から何かとクラスを仕切っているから、別に驚くことでもない。
「怖いのか?」
 嫌味のように一人が鼻で笑うのを、無言で見返す。
「別に怖くなんかないけど」
「じゃあなんで来なかったんだよ」
「待ち合わせ時間が遅かったから。俺の家、結構遠いし」
「どこだよ」
「伝馬町」
「近いじゃねぇか」
 用意していたようなセリフ。俺の家がどこだろうと、そのセリフを吐いたのだろう。ツアーに参加しなかった為に、目を付けられたようだ。
 予鈴が鳴った。
「とにかく、今晩一緒に来いや」
「え?」
「いいな。午後9時に山の入り口だぞ」
 二人はもっと何か言いた気だったが、用件だけ告げると教室へと戻っていった。俺は、ただ黙ってその後に続くしかなかった。




 自転車ではちょっとキツい坂道が、目の前で途切れている。桜の木への案内板が、遠慮深そうに小道を指している。小さい頃に一度だけ親に連れられて来たが、その時は昼間だったし、かなり混んでいた。記憶の中の道とはだいぶ違う。
「おい、こっからは歩きだ。先に行け」
 一人が振り返って指示を出す。もう山の頂上にいるはずだが、桜の断崖まではまだ少しある。仕方なく自転車を降りて歩き出す。数歩後ろに二人が続いた。
 俺は、上着のポケットに手を入れた。いざという時の用意はしてきたつもりだ。
 柔道部期待の新人と学年一の長身。どちらも体格ではかなわない。ウチの高校は内申点もそこそこないと入学できないから、中学までは二人ともヘタな問題は起こしていないはず。だが、中学まで優等生だったからって、なにもされないとは限らない。とりあえず親には行き先を告げて、技術科で使う小刀をポケットに忍ばせてみた。相手を倒すことまではできないが、逃げる時の威嚇にはなるだろう。
 後ろの気配を気にしながら悪い足場を一歩一歩踏みしめると、やがて暗闇の中に金網が見えてきた。数メートル手前で止まった。
 金網の奥に、桜の木が見える。杉の木とは体躯が違うからすぐにわかる。太い幹から両側に張り出した枝が傘のように広がり、形としては立派だと思った。花はほとんど散ってしまい、全体が若葉色に覆われ始めている。
 背中を押されて、さらに進んだ。
 夜の風は冷たい。その風に、桜の色が少し舞い上がる。見ると、足元は散った花びらで覆われていた。踏み潰されてはいるが、まだその色は土に埋もれてはいない。近づくほどにその色は濃くなり、暗闇の中で桜の色だけがホウッと光っているようでもある。木の背後は崖。その奥下には街が広がっている。その光が少しは届いているようだ。初めての夜桜。
「何かいるか?」
 我に返った。目を凝らして見つめて見るが、それらしいものは何も見えない。
「なんにもいないよ」
 一人がチッと舌を打つ。
「もっと行けよ」
 今度は思いっきり背中を押されて、なかば転びかけた。それを見て、一人が笑う。
 ひたすら無視して金網まで近づいた。手をかけて、網目から覗き込む。金網は真新しく、錆びた臭いもしない。事故の後に張り替えられたからだ。
 男子生徒は、後ろからバイクに突き飛ばされた。バイクは金網を突き破って崖下へ転落した。撥ねられた生徒は金網の向こうへ吹っ飛ばされ、桜の根元に倒れていた。二人ともほぼ即死だったのではないかとのことだ。
 金網を突き破るくらいだ。よほどの勢いで突っ込んだのだろう。
 バイクの運転手は地元の高校生で、以前から警察に何度もお世話になっていたそうだ。その日も、仲間数人とバイクで駆けまわっていたらしい。桜の木まで競争することになり、俺が歩いてきた道を一気に駆け抜けた。現場にはブレーキの痕がなかった。ブレーキが利かずにそのまま突っ込んだようだ。
 当時はまだ蕾も固い頃だった。ライトアップなど当然まだ開始されてはいなかった。たとえ薄明かりが入り込んでいたとしても、猛スピードで突っ込むバイクの生徒には、桜の手前にいた少年など見えなかっただろう。
 桜の木の奥に、夜景の端がチラリと見える。道やこの場所を整備すれば、夜景スポットにもなりそうだ。
 金網のきしむ音がそばで響いた。見ると、二人とも俺と同じように覗き込んでいる。
「何にもいねぇな」
「イヤ、まだわからねぇ。9時半だし」
「何時までいるの?」
 ギロリと睨まれる。
「出るまでだよ」
「出なかったら」
「朝までいるんだよ!」
 それはマズい。こっそりと腕時計を見る。11時にはここを出なくては、今日中に家には辿り着けない。あまり遅くなれば親も心配する。いっそ心配して携帯に電話してきてくれればいいのにと思う。
 うんざりとため息をついた時だった。
「おい」
 一人の声に頭をあげる。桜の木を見るが、何も見えない。目を凝らそうとして、肩を捕まれた。
「そっちじゃねぇよ」
 肩を引かれて後ろを見る。視界の端に、何か見えた。ように思う。
 何か、白い布のようなもの。だが、改めて見ても、何も見えない。
 見間違い?
「おい、お前、見ただろ!」
 脅されるように詰め寄られて、思わず首を縦に振った。
「何がだよ」
「出たよ。あそこの木の後ろ」
 一人が指差す方角は、確かに俺が何か見た場所でもある。
「あん?」
 見れなかったもう一人が目を凝らすが、すでにそこはただの闇。
「マジかよ」
「マジだって」
 見てしまった方の声が、少し乾いている。
 まさか
 自分にそう言い聞かせる俺も、喉の奥が乾いている。生唾を飲むとヒリッと浸みた。
 振り返ると、桜の木が見える。微かな光を逆光として受けているその姿はなんとなく不気味で、桜というよりまるで柳の木だ。その根元に、白い少女を想像してみる。白くて透き通るような肌。服は足元まで長くて、浮いているようにフワフワと漂っている。そうしておもむろにこちらを向くと、白い瞳でニィと笑う。
「おい!」
 再び肩を捕まれて、足元がもつれる。どうにか持ちこたえて指差す方を見るが、今度は何も見えない。
「見ただろう」
 今度は首を横に振る。
「見てねぇのかよ!」
「今度はなんだよ」
 先ほど見えなかった一人は、今度も見逃したらしい。
「わからねぇ」
 二度とも目撃したらしい一人の手が、微かに震えている。
「わかんねぇって・・」
「なんか白いもんがフワッて」
 そう答えながら、一点を凝視している。
「絶対になんかいるって!」
 幽霊なんて、いるわけがない。
 そう言い聞かせながら、背中に寒気を感じる。ひょっとしたらいるかもしれない。なんて思ってしまう自分がいる。
 俺達三人は、身動ぎ一つしないまま、視線だけを周囲へ巡らした。肩に食い込んだ指が痛かったが、払い除けるような動きはできなかった。
「お前、行ってこい」
 唐突に言われて、勢いよく押された。今度は耐え切れなくて、地面に両手をついた。
「なにビビッてんだよ」
 一人の笑い声が少しひきつっている。
「あの木の後ろ。見てこいよ」
 二度目に何かが出たらしい方角を顎で指示される。抗議したところで受け入れてはくれなさそうだ。ゆっくり立ち上がると、両手の土を払った。
「早くしろって」
 心なしか焦っているようにも聞こえる。
 一歩前へ出た。今度は、ついて来る気配はない。一歩、また一歩。
 無理に背筋を伸ばし、大股でゆっくりと近寄っていく。二度目は俺は何も見てないから、はっきりとどの木かはわからない。適当に当たりをつけて目指してみる。太い杉の木。そっと手を伸ばし、幹に触れてみる。ザラリと冷たい感触が手の平から伝わる。動きを止めるとそこから動けなくなるような気がする。だが、首だけで覗き込むと、もしそこに何かが隠れていたら、鉢合わせになる。白い瞳に見つめられたら、俺はどうなるのだろう?
 もう半分真っ白な頭でぼんやりと考えながら、木の後ろへまわった。
 誰も、何もない。そのまま幹に手を添えて、ぐるりと一周してみる。暗闇の中で、自分の足音だけが妙に響いているのに気がついた。途端に、全身から力が抜ける。乱れた足音が近づいてくる。
「っんだよ、なんにもいねぇじゃん」
 急に生気を取り戻した声が、つまらなそうに吐く。もう一人は納得いかないという様子だ。俺は大きく息を吐くと、もう一度全身の力を抜いた。
 そうさ、幽霊なんて、いるわけがない。
 その耳に、突き刺さるような声。
「ヒャッ!」
 それはとても小さな声だったが、俺の心臓を止めるのには十分な声だった。見ると、一人の身体が直立不動、瞳も微動だにしていない。そしてその首に、白い手。
 視界が揺れた。まるで地面が揺れているかのようで、頭の重さを感じる。手近な幹に片手で寄りかかる。
 手は背後から伸びている。柔道で鍛えた身体が壁になり、その後ろは見えない。だが、首を伸ばしてその手の先を見ようなんて、そんなことはできない。
 白い手はゆらゆらとそいつの首を撫でるように揺れている。首に手を添えられたヤツは、俺達の表情から後ろの存在を想像したらしい。みるみる血の気がひいていく。だが、生唾を飲み込むと、意を決したように首をまわした。それはまるで、発条仕掛の人形が動いているかのようだった。
 そんなヤツの背後から小さな肩がゆれる。その後から透き通るような頬。白い顔が覗き込む。まるで血を舐めたよう赤い唇の端が吊り上った。
 俺は意識が飛ぶのを感じた。何がどうなったのかわからない。奇声のようなものが聞こえて、同級生がこちらに突っ込んでくるのが見えたようにも思える。でもその後は何も見えなくて、ただ何かものすごい力に押し飛ばされて、情けなく地面に転がったのだけはわかった。
 気がつくと、俺は仰向けに倒れていた。
 どうしてよいのかわからない。頭は妙に回転するのに、身体はちっとも動かない。そんな俺の耳に、声が聞こえる。
「堂島くん」
 囁くような声。まるで、幽霊が呼びかけるような、この世のものとは思えない。
 うぉ! なぜ俺の名前を! 
「堂島くん」
 今度はもっとはっきりした声。
 近い! 近いぞ! 俺、このまま取り付かれるのか!
 俺はもう覚悟を決めた。
「堂島くん!」
 怒鳴られて、なぜか飛び起きた。振り返ると、瞳がこちらを見ている。地面に尻をついたまま、視線を外すことができない。
 ん?
 大きく見開いた黒い瞳が、困ったようにこちらを見ている。ちょっと首を傾げる。
「大丈夫?」
 俺は、何も言えなかった。ただ口をあんぐりと開けたまま、彼女を見つめていた。




「そんなに驚くとは思わなかった」
 真っ赤な口紅を拭きながら思い出し笑いをされると、こちらとしては少々ばつが悪い。
「本当に幽霊がいるとでも思ってたの?」
 呆れたように笑われる。
「悪戯が過ぎるんじゃないのか!」
 こっちはそれこそ死ぬ覚悟だったのだ。相手が同級生の女子生徒だったと知って、腹が立たないわけがない。だがこの状況では何を言っても言い訳にしかならない。その事実にも腹が立つ。
「どういうつもりなんだよ!」
 俺の勢いに、彼女は笑いを止める。
「ごめんなさいね」
 素直に謝る姿。
 自分は、自分のことを、女に弱い人間だとは思っていない。だが、今の彼女にはちょっと見入ってしまう。
 黒く艶のある長い髪に、白い肌。その肌に負けないくらいの白のワンピース。この暗闇で遠目に見たら、幽霊と見間違えるかもしれない。
 二人は俺を押し退けて、先を争うようにして逃げてしまったのだと言う。ものすごい叫び声をあげていたらしいが、俺の耳にはちっとも残っていない。
「昼休みの廊下での会話が聞こえちゃって。だから、なんとかしたくて」
「なんとか?」
 少女はコクリと頷く。
「なんだか、脅されてるように見えたから。許せなくて」
 意外だった。彼女にそんな感情があるとは思わなかった。
 彼女は、クラスでもほとんど目立たない。話したことなど一度もない。同じクラスの笠野だと名乗られるまで、名前すら思い出せないでいた。一人でいることが多く、まだ親しい友達もできていないようだった。表情が変化するところなど見たこともないから、人形のようにも見えた。
「私ね、尼橋村から出てきたの」
 唐突に出身地を告白されて、面食らった。俺も住所を言うべきだろうか?
「宮原先輩もね、尼橋村から来てたの」
「宮原先輩?」
「ここで死んだ人」
「え?」
 俺は、桜の木を見て、それから笠野を見た。
 俺達は、桜の木と向かい合うようにして、近くの岩というか石っころに腰掛けている。桜は後ろから微かな夜景の光を浴びて、うすぼんやりと浮かび上がって見える。落ち着いて見てみると、不気味というよりどこか幻想的な存在だ。
「小さい頃から知ってて、お兄ちゃんって呼んでた。ずっと好きだった」
 照れるようではなく、ただ淡々と口にする。暗闇に慣れてきたのか、表情もはっきりとしてくる。
「高校が遠くて村を離れるって知ったとき、本当にショックだった。でも、頑張ってお前も同じ高校に来いって言われて、だがら私、頑張った」
 県下でも有数の進学校だ。そう簡単に入れるものではない。だから笠野は、合格するまで宮原には逢わないと決めた。
「でもお兄ちゃんは、携帯のメールで毎日励ましてくれた。高校生活がどんなに楽しいかも教えてくれた」
 合格発表へは一人で向かった。
「あの日、ここで逢うはずだった。メールで合格を知らせたらすごく喜んでくれて、ここで逢おうって。お兄ちゃんが高校に通い始めた頃に、素敵な場所を見つけたってメールで教えてくれた。桜の頃にはすごく綺麗だって。まだ花見には早いけど、二人でお祝いしようって。でも私、道に迷っちゃって、時間までに辿り着けなかった。もしあの時、もっと早く着いてたら・・」
 やっとの思いで辿り着いた時、笠野を出迎えたのは、赤いパトライトだった。
 通夜で、一年ぶりに対面した。
「バイクの男は、絶対に許せない。そういう身勝手なヤツらは誰も許せない。だから、あの二人はお兄ちゃんを殺した犯人と同じ人間のような気がして、許せなかった」
 お節介だったかな? と笑われて、俺は慌てて首を横に振った。
 彼女は微かに唇を噛む。
「でもね、ヘンなんだ。お通夜でもお葬式でも、ちっとも涙が出ないのよね。不思議と悲しいって気持ちになれなくって。だから、ここに来たら泣けるかなって思ったの。それに、桜が綺麗だって教えてもらってたから」
 夜は暗くて交通事故に遭いやすいから白い服装にしろと、小さい頃から親に教えられていた。宮原が命を落としたすぐ傍まで行きたくて、金網をよじ登った。
 村育ちだというが、笠野の肌は透き通るように白い。長い睫毛の下の大きな瞳。唇はサクランボのように、やわらかな赤みをふっくらと帯びている。
 花見の季節にはライトアップするのだが、雰囲気を出すために淡く抑えられているらしい。その幻想的な光景の中でひっそりと、視線を避けるように佇む笠野。その姿を見た人は、この世のものとは思えなかったのだろう。
「幽霊騒ぎが持ち上がった時、それでもいいなって思った」
「え?」
「幽霊でもいいかなって」
 幽霊って・・・
「それって・・」
 怖くて、その先が言えない。そんな俺を見て、笠野は悪戯っぽく笑う。
「だって、本当に好きだったんだからね」
 この崖から飛び降りれば、命を落とすことができるだろう。
 笠野が大きく息を吐く。
「でも、本当に好きだったのかなぁ? 今だに、ちっとも泣けないんだよね。もう気持ちが冷めちゃってたのかな?」
 一年ってけっこう長かったし、と笑いながら空を見上げる。目を閉じて、ゆるやかな春の香りを吸い込む。木々が邪魔だが、それでも暗いので、街中よりかは星が見える。
「自分が本当にお兄ちゃんのことを好きだったのか、それすらもわからなくなっちゃって。もう、なんにもわからないんだ。何のために高校に入学したのかとか、これからどうすればいいのかとか」
 春の風が、笠野の黒髪を巻き上げる。まるで生きているかのように、笠野の表情を俺から隠す。襟元の白い飾りがヒラヒラと揺れる。このまま、笠野が消えてしまうのではないかと不安にさえなってくる。
「でも幽霊騒ぎでここが騒々しくなるのって、なんか不愉快に感じちゃって。だから噂を消そうと思って、ここ一週間くらいは来てなかったの」
 だからクラスの連中は、幽霊を目撃できなかったのだ。
「あの・・・」
 例えば、プールで溺れそうになって大恥かいた時とか、受験勉強に押しつぶされそうになった時、辛いとは思ったが、死にたいとまでは思わなかった。だから、目の前にいる自殺志願者をどう説得すれば良いのか、俺にはわからない。
「あの」
 何を言えばいいのかわからず言葉を選ぶ俺の前で、笠野はぴょんっと立ち上がる。
 まっすぐに見下ろす瞳の意味が、俺にはわからない。口元が笑う。それは、決して恐ろしくとも不気味とも思えない。幽霊ではない、ちゃんと感情の通った唇。
「幽霊じゃないよ」
 気づいた時にはそう言っていた。笠野の瞳が曇った。
「幽霊なんかじゃないよ。ちゃんとさ、生きてるじゃん」
 立ち上がると、今度は俺が見下ろした。
「お前さ、幽霊なんかじゃないよ」
 その瞳が大きく揺れる。
 他に言葉が見つからず、また繰り返す。
「幽霊なんかじゃないよ」
 笠野は、何かに突かれたように瞳を大きく見開くと、視線を俺から外して、ゆっくりと桜の木を見た。その瞳は、やがて虚ろになる。
 風が大きく吹き込んで、笠野の髪を、今度は後ろへ吹き飛ばした。白いワンピースも揺れる。散った花びらが巻き上がり、俺達の間を吹き抜ける。思わず目を細める。片手をかざすようにして、必死で笠野を見つめた。
 笠野は、正面から風を受けた。巻き上がる花びらよりも、もっと遠くの何かを見ている。それは、桜の木なのか?
「そうだよね」
 静かな声。あまりに小さくて、風音にかき消されてしまいそうだ。
「こっちは生きてるんだよね」
 その頬を、涙が伝った。たった一筋。
 瞬くと、もう一筋。
 それで終わり。
「生きてるんだもんね。どう頑張ったって」
「幽霊の世界にゃあ、先輩がいるかもしれないけどさ、人間の世界だって、何かいいことあるかもしれないって」
 春の風は、もう冷たくはない。
「いいことって?」
 俺の言葉が無責任っぽく聞こえたらしい。掌で頬を拭いながら、ムッとした様子で問いかける。だから俺は、考え込むように大げさに腕を組むと、人差し指をピッと笠野の前に立ててやる。
「新しい恋人が見つかるとか」
 言ってしまって自分でもびっくり。これってどういう意味? 自分でもよくわからない。
 笠野も、何を言われたのかわからないという表情で、しばらく唖然と俺を見ていた。だが、やがて呆れたように腰に手を当てる。
「言っときますけどねぇ、私はそうそう簡単に人を好きになるほど、惚れっぽい性格じゃないのよね」
 お生憎サマ、と言いながらクルリと背を見せ、肩越しに振り返る。その瞳には笑みが浮かび、口元は悪戯っぽく笑っている。
「お生憎・・サマ?」
「あんたみたいに、すぐ腰抜かすような臆病者は、タイプじゃないのよね」
「なっ! おっ、ちょっと待て、それどういう意味だよ! 言っとくけどなぁ」
 慌てて反論する俺の目の前で、今度は笠野が人差し指を立てる。その瞳には、もうさっきまでの涙はない。
 チッチッチッと軽く振ると、プイッと背を向けた。
「男って、ホンットにガキよねぇ。これで女が落とせたとでも思ってるワケぇ」
「誰がお前を落としたってんだよ! 自惚れてんじゃねーよ!」
 女って、わっかんねぇ
 うんざりとため息をつき、ふっと振り返る。
 桜の木の手前、少年が立っている。道に迷った少女と、携帯のメールで連絡を取り合う彼。もうすぐ会える少女のことで頭がいっぱい。夢中で携帯を操作する。学校で待ち合わせればよかったかと少し後悔しながらも、それでも幸せそうなその瞳。だが、突然こちらへ顔をあげる。その姿を、巻き上がる花びらが覆い隠す。
 ハッと辺りを見渡す。強風に巻き上がる花びら。少年の姿はどこにもない。
 呆然としたまま笠野を振り返る。
 俺に怒鳴られ、小走りに逃げていく彼女。その姿は、幽霊というよりかはむしろ小悪魔だ。
 本当は彼女、こういう人なのかもしれない。
 それは舞い上がる花びらみたいで、ひょっとしたら俺は、これからもこいつに翻弄されるのかも。ふとそんな気がした。
 それはすっごく憂鬱で、でもちょっとだけ、楽しみにも思えた。




== 完 ==


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