琴美は目を覚まし、ぼんやりと枕元の時計を覗き込んだ。きっかり9時。
「げっ!」
数秒の後にガバリと半身を起こすと、目覚まし時計を手に取り、食い入るように見直す。
1分過ぎたので、9時1分。
どうしようっ 正樹との待ち合わせは9時半。飛び起きてシャワーを浴びて着替えて飛び出しても、30分では間に合わない。
だが、琴美は小さくため息をつき、傍らの携帯へ手を伸ばした。素早い操作でメールを打つ。
[駅の改札にお局の森下がいるっ!Σ( ̄ロ ̄lll) 先週のバレンタインでフラれたって噂だから、見つかると絡まれるかも・・・ 森下やりすごして行くから、少し遅れるっ ごめん m(_ _)m]
にんまりと笑い、のんびりと伸びをする。
連絡しておけば遅れても構わない。連絡しておけば、相手を待たせても構わない。
思いっきり朝の空気を吸い込んで、携帯を閉じた。
え?
一瞬見えた携帯の画面に目を丸くする。そうして、小さなサブ画面を見た。
PM12:03
え?
目覚ましは9時3分。
どっちが正しいの?
正樹との待ち合わせは午前9時半。もし携帯が正しいなら、琴美は2時間半も待たせていることになる。今さら遅れると連絡したところで、何の効果もない。
ってか?
首を傾げながら居間へと向かう。
そんだけ待たせたら怒りのメールの一つでもありそうなんだけど・・・?
壁掛け時計を見上げた。4時4分。
「なぁっ!」
どうしていいのかわからず、おどおどとテレビのリモコンを手に取る。展開された画面の左上には6:05の文字。
「6時?」
胸の内に安堵と不安が広がり、しばらく何も考えられない。だが、やがて・・・
「えぇ! これって、平日の朝にやってるヤツじゃん!」
琴美は慌ててカーテンを引いた。陽射しが眩しい。でも、窓の外には時計なんてない。
「そうだっ!」
思わず叫ぶと、電話機に飛びついた。震える手でボタンを押す。
『午後10時6分28秒をお知らせします』
・・・・えっ
午後10時って・・・
振り返る窓からは、眩しいばかりの陽の光が差し込む。
午後・・・10時?
時報が間違うことなんて、そんなことあるのだろうか?
寝室へ戻り、携帯を手に取る。正樹からは、メールも電話もない。画面の文字は12時7分を示している。
怒っちゃったのかな?
だが、そもそも自分が寝坊したのかどうか・・・? 今は・・夜? 朝? 休日? 平日?
「どうしよう」
休日をまるまる寝過ごしてしまったのだろうか? 正樹とのデートをすっぽかして、今日はもう月曜日なのだろうか?
もしそうならば、正樹へは早急に詫びのメールを入れなければ。それに・・・
「ヤバいよね」
もし月曜日ならば、やはり琴美は完全に遅刻だ。毎朝6時には家を出ないと仕事には間に合わない。2月の今は、まだ陽が昇る前に出勤だ。こんなに煌々と陽が照っている頃に起きていては、間に合うはずがない。
となると、正樹よりも先に会社へ連絡をしておかなければならない。
電車が遅れた? ダメだ。他に電車通勤している人もいるからバレる。途中で水撒きしてる人に水かけられて服がびしょ濡れになったとか? それなら30分くらいの遅刻の理由にはなる。でも、こんな真冬に水撒き?
それとも痴呆気味の老人に道を尋ねられて無視することができなかった? どうしていいのかわからずに、交番を探してたら遅れてしまった。
これなら、かなりの時間を稼ぐことができる。だが・・・
「あぁーん!」
頭を抱えて蹲る。
とにかく今が何時なのかがわからないと、言い訳のしようがないじゃん。
テレビからは、新人女子アナの元気な声が流れてくる。その声がヤケにウザく感じて、イライラとテレビの前へ立ちはだかった。
開店前のデパチカをレポート。端午の節句が近いとあって、柏餅やらチマキが美味しそうに並んでいる。
・・・・端午の節句?
「端午の節句?」
思った言葉を口にしてみる。端午の節句って、5月じゃない?
唖然としながら、壁のカレンダーを振り仰ぐ。正樹とのデートの予定が書かれた、2月のカレンダー。
当たり前じゃん。先週バレンタインだったんだよ。正樹にチョコあげたばっかだもん。
だがテレビの向こうでは、しっかりふんわり髪をセットした入社したての女子アナが、次々と今年の新作を紹介している。
リモコンを押した。別のチャンネルでは今週の映画ランキング。さらには近日公開予定の新作の紹介。2010年のアカデミー賞で七部門にノミネートされた監督の新作。それを映画通っぽい中年男性が熱っぽく語っている。
でも待って?
「2010年?」
琴美は再びカレンダーを見上げる。2月の文字の上に2012年の文字。
2012年? 琴美はポカンと口を開けた。
え? どういうこと?
両手で頭を抱え、必死に考える。
2012年? 2012年?
ということは・・・、私は33歳?
「ウソッ!」
思わず叫んで口を抑える。
あり得ない。琴美の記憶では、今は2008年のはずだ。今日は2008年2月17日で日曜日のはずなのだ。
去年のクリスマスに正樹からプロポーズされ、今年の11月の誕生日前に結婚できれば30前でセーフだったのだっ!
落ち着け 落ち着け
両手を胸の前で組み、目を閉じ、必死に自分へ言い聞かせる。
これは夢だ。私はまだ寝ているのだ。目が覚めれば朝で、今日は正樹とデートなのだ。
だが、いくら呪文のように唱えてみても、目が覚める気配はない。バカだとは思うが頬をつねってみる。
・・・痛い。
ゴクリと生唾を飲み込む。
何か、確実に日時のわかるもの。
だが、とっさに何をすればいいのかわからない。考えれば考えるほど頭が混乱する。
こんなんじゃダメだっ!
琴美は落ち着くために大きく息を吸い込むと、窓を開けた。
肌寒さに肩が震える。冷たい空気が頭の芯を冷やした。カサカサという乾いた音に視線を落せば、老人が竹箒で家の前を掃いている。そこへ、一人の老女が通りかかった。
「精が出ますねぇ」
「えぇ、もみじがあると毎日大変ですわ」
「寒くなりましたから、お風邪などひかないでくださいね」
「本当に、寒くなりましたねぇ。今年ももう1ヶ月足らずですなぁ。そう言えば、年賀状は書きましたかな?」
「いいえ、まだなんですよ。喪中はがきがチラチラ来てましてね。もう少し待ったほうがよいかと」
「それはそれは。でも今はパソコンなんてものがありますから、一日もあれば書けてしまいますからなぁ」
「えぇ、でもお陰で自分で書くことがなくなったものですから、本当に出し忘れがないのかどうかわからなくって・・・」
そう言って、老女は品良く笑う。
「やっぱり手を動かして書いたり口に出して言ったりしないと、忘れていってしまうのですよねぇ。今日が何日なのかも忘れてしまいますよ」
「えっと・・・」
琴美は思わず身を乗り出した。だが、老人は竹箒に顎を乗せたまま、恥ずかしそうに頭をかく。
「おやぁ? 今日は何日でしたかな?」
「でしょう? では今年が何年だかわかります?」
「うーん」
やはり老人は首を傾げる。それを見て、老女は再び笑った。
「年を取るとこうなんですよ。私も今朝がた孫に教えてもらわないと思い出せなくって、困りました」
「して、今年は何年でしたかな?」
「西暦だと2068年だそうですよ。11月29日」
「あぁ そうでした、そうでした」
長閑な笑い声を上げる二人の声が、遥か遠くで響いているかのようだ。
11月・・・?
いや、それよりも、西暦2068年?
目の前が真っ暗になるのを感じた。二人の言葉が頭の中で回転する。
・・・・パソコンで年賀状。
ハッと息を呑み振り返った。居間のパソコンの電源を入れる。立ち上がるまでがもどかしくて、思わず叩きそうになる。どうにか堪えてネットにつなげると、検索画面で文字を打った。
【世界時計】
以前受けたパソコン講習で、ネットを使って正確な時刻を取得することができると教えてもらった。世界の時刻の基準となる、イギリスのグリニッジの時刻を取得するのだ。
検索ボタンを押すと、結果一覧が表示された。一番先頭に、航空会社の時刻サービスが出てきている。クリックしてみる。
東京(日本) TOKYO(JAPAN) 4386/4/16(WED) 0:16:16
グリニッジ標準時 GreenwichMeanTime(GMT) 4386/4/15(TUE) 15:16:16(+09:00)
・・・・・
もしも・・・もしも今が西暦4000年だとしたら・・・
電源入れてから立ち上がるまでに1分以上もかかるパソコンなんて、時代遅れでもう使えるワケがない。
目の前がぼんやりと霞むのもかまわず、携帯へ手を伸ばす。
携帯だって、きっとテレビ電話が当たり前になってて、こんなの旧式でつながるワケがない。
そうだ。こんなこと、あり得ない。
リダイヤルで電話をかける。
もし寝坊して遅刻してたなら、きっとすごい剣幕で怒られるだろう。だが、それでも構わない。
半分ヤケになりながら・・・ そういえば、寝起きに打ったメールの反応がない。それはつまり、どういうコトなのだろうか?
二回コールで相手が出る。
「正樹っ!」
相手の言葉を待たずに、琴美は早口でまくしたてた。
「あのっ、ちょっと教えて。今って何年? 西暦何年?」
しばらく沈黙。当たり前だ。いきなり大声でそんなこと聞かれたら、誰だって面食らうだろう。
「正樹?」
再び問いかけると、電話の向こうから静かな声。
「西暦8169年ですけど」
掌に、じっとりと汗がにじむ。だが、そんな琴美の耳に、他人行儀な声が入っている。
「ところで、あなた誰です?」
携帯の画面を確認した。通話相手は田所正樹。リダイヤルでかけているのだ。間違えるはずもない。それに、声だって正樹の声だ。
「正樹じゃないの?」
「確かに僕の名前は正樹ですけど」
「田所正樹でしょうっ!」
こんなときにこんな冗談っ!
イライラしながら怒鳴 りあげる。すると、相手は少しの沈黙の後、不審そうに問いかけてくる。
「どうして僕の名前を知ってるの? アンタ、誰?」
琴美は、全身が総毛立つのを感じた。震える手から携帯がゴトリと落ちる。
「もしもしっ?」
相手が問いかけるのも無視して、フラフラと鞄へ手を伸ばした。免許証を取り出してみる。
浅田琴美 1978年11月6日生
さぁ あなたなら、どの時計を信じますか?
== 完 ==
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