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遅い雨
誘木(いざなぎ) (めい)

   行けば楽しいかもしれない。だが別に行かなければならないこともない。だから俺は断った。
 行ったって行かなくたって、俺の人生には大した影響もない。行かなかったからって、人生が終わってしまうワケではない。
 そう答えると、後輩の社員は苦笑しながら自分の席へと戻っていった。ヒソヒソと言葉を交わす女子社員から視線を外すのと同時に、携帯が震えた。会社のではない。個人の携帯だ。
 画面が、メールの着信を知らせている。



「へー アルペンルート、私も行ってみたいなぁ。立山でしょう? 雪の壁がすごいんだよね」
 ジョッキを片手に三俣(みつまた)が声をあげる。だが居酒屋の喧騒(けんそう)の中では、大した音でもない。
「ただの雪だぜ」
「でも、すっごい迫力なんだよ。知らないの?」
「テレビでは見たことあるけど」
「行ってみたくならない?」
「別に」
 もうっと、頭を叩かれる。俺はそれに口ごたえすることもなく、パクッとつまみを放り込んだ。
「相変わらずクールねぇ」
「悪かったね」
「別に悪いだなんて言ってないでしょう」
 三俣はジロリと睨み上げ、うんざりとため息をついた。
「別に悪いだなんて言ってないけどさぁ、もうちょっと覇気(はき)のある受け答えってできないの?」
「できない」
「だろうね」
 三俣も大して期待はしていないのだ。高校のときから俺はこうだった。無関心で無愛想で、笑ったことなど3年間で数回しかないだろう。逆に、怒ったこともほとんどない。大学に入っても就職しても、それは変わらない。変えたいと思ったこともない。社内では密かに、河野仮面(こうの かめん)なんて呼び名までつけられている。だが、それに腹が立つこともない。
 笑うなんて、怒るなんて、疲れるだけじゃないか。笑ったって怒ったって、人生が終わってしまうワケでもない。
「あっ! すいませーん。こっちにナマ1つ追加ねぇっ!」
 よく通る声が店内に響き渡る。三俣が店員に愛想の良い笑顔で手を振っている。
 高校生の時もよく叫んでいたような気がする。
 特別仲が良かったワケではない。ただ3年生の時に同じクラスだっただけ。何度か話しかけられたこともあったのかもしれないが、俺の記憶にはない。たとえ話しかけられたとしても、大した返事はしなかっただろう。
「ねぇ ねぇ じゃあさぁ」
 数分前までふくれっ(つら)だった顔にはすでにその影もなく、三俣はいつもの三俣に戻っていた。
「大通り公園の花祭りに行かない?」
「なんで?」
「行きたいから」
「行けばいいじゃん」
「一人でなんて行けないよぉ」
「っんでだよ」
「だって、誰に会うかわかんないじゃん。一人で歩いてるとこ会社の人とかに見られたら恥ずかしいじゃん」
「なんでだよ」
「だからぁ」
 あーっ とイライラしたような声をあげたところに、ビールが運ばれてくる。眉毛がしっかり見えるほど短く切った前髪を掻きあげ、グビグビと半分まで一気に減らした。
 両耳の上で留めた髪はそのまま肩までストンと流れ、さりげない小さな緑のピアスがチラリと光る。
「そんなに飲むと、また路頭で朝を迎えることになるぞ」
 言ってしまってハッとした。何か、妙な違和感を感じる。
 だが三俣は、そんな俺に気づく様子もない。
「二十台後半の女が一人で花祭り歩いてるなんて、陰で何言われるかわかんないじゃん」
「別にかまわんだろ?」
「私は構うの。わかってないなぁ」
「悪かったね」
「悪いなんて言ってないでしょうっ!」
「うっせーなー」
 ビールをゴクリと飲み干す。すかさず三俣が追加注文。
「ねぇ、別にいいでしょう? 行こうよぉ」
「俺と一緒の方がマズイんじゃねぇか?」
「何でよ?」
「彼氏と誤解されるぞ」
 腹の底から吐き出すような笑い声。三俣の笑い声はいつも豪快だ。
「べっつにかまわないわよ。後で訂正しとけばいいんだから」
「そういうのはかまわんワケか」
「そういうワケ」
「ワケわからん」
「アンタはわかんなくってもいいのよ。じゃあ決まりね?」
「え?」
 呆気(あっけ)に取られる俺のそばに、ドンッとジョッキが置かれる。
「いつがいい? 5月の3日? 4日? 私はいつでもいいんだけど。4日も休みだよね?」
 行くことになったのか?
「4日は休めないって人も多いから、意外と空いてるかもね。4日にする?」
 頬杖をついてニッコリ笑う大きな瞳に、俺は小さくため息をついた。
 まぁ断るのも面倒だし、いいか。
 俺の表情を見て、三俣は笑みを曖昧(あいまい)にする。
「ねぇ?」
「あぁ?」
 間の抜けた返事を受けて、三俣は口を小さく開いた。そうして、口とは対照的に一瞬だけ瞳を大きく見開いたが、やがて何も言わずに視線を外すと、ビールを飲み干した。



 振動する携帯をパチンと開く。思ったとおり、三俣だ。
【さっきもらったフリーペーパーに面白そうな店を見つけたっ! 今度行こうっ! じゃあ おやすみ〜】
 俺はそのまま閉じるとポケットに突っ込む。
 三俣と再会したのは4年前。地下鉄の駅のホームでだった。
 嬉しそうに声をかけてきた。だがもともとそんなに仲が良かったワケではないし、高校卒業以来の彼女は、見かけはすっかり変わっていた。俺には誰だかわからなかった。
 そのハキハキしたモノの言い方まで変わっていたら、最後までわからないままだっただろう。
 彼女の勢いに押されてアドレスを交換した。それ以来、なんだかんだと会っている。
 些細(ささい)なことでもマメにメールをしてくる彼女に最初はうんざりもしたが、アドレスを変えるのも面倒だった。適当に読み流して、返事もせずにほかっておく。会った時にギャーギャー文句も言われた。反論するのも面倒でそれも聞き流していたら、やがて何も言わなくなった。
 正直、今日のように待ち合わせをして会うってのも、億劫(おっくう)に思う。だがあまり断ってばかりいると、ものすごいメールの嵐で夜も寝付けない。
 電源切っちまえばいいのか。
 窓の外を流れる夜景をぼんやりと見つめながら思う。
 だが、三俣のためにいちいち電源入れたり切ったりすんのも、面倒だな。
 駅に着きホームに下りたところで、再び携帯が震える。
 今度は着信だ。
 メールは毎日星の数ほどしてくるが、電話をしてくることはあまりない。
 めずらしいな
 取り出した携帯を見て、俺は肩を(すく)める。三俣ではない。会社の上司だ。
 会社から支給されている携帯は事務所に置いてきている。家に帰ってまで仕事で呼び出されるのは面倒だからだ。だが緊急の時のために、こちらの番号を上司にだけは知らせてある。
「もしもし」
「おぉ、出た出た」
 声音は明るいが、やや息が切れているようだ。
河野(こうの)か?」
「そうですけど」
「悪い。今 いいか?」
「えぇ」
「今日の昼間の件だけど、相手から今オッケーが出たんだ。で、こうなったらできるだけ早く進めちまいたいんだけど、お前さ、4日出れるか?」
 4日
「5月4日ですか?」
「そうだ」
 一瞬思案(しあん)し、やがて口を開く。
「いいですよ」
「おぉ、そうか。悪いな。俺も行けるようにするから。いやー、やっぱお前は助かるよ。お前が一番信頼できるからな。あんなにひねくれたお得意さんに根気良く付き合えるのも、お前しかいないしな」
 部下をベタ褒めする上司の長話に無言で付き合い、携帯を切り、ポケットに仕舞った。すでに誰もいなくなってしまったホームを、ゆっくりと歩き出す。
 別に我慢して客に付き合ってるワケではない。ただ話を聞いているだけだ。他のヤツらは「話が長い」「高圧的で聞いてて腹が立つ」「客だからって態度がデカイ」などと言って嫌がるが、俺にはそれがわからない。
 別にただ話を聞いて、それを上司に報告すりゃあいいだけじゃねーか。簡単なことだよ。何でいちいち腹を立てるんだよ。
 だから無駄なんだよ。感情ってのは。
 客ウケの良い俺を八方美人(はっぽうびじん)だとかゴマすり野郎だとか言うヤツもいる。9月には昇格の話もある。だが、嬉しいとは思わない。
 別に昇格狙いで客にゴマを()ってるワケではない。むしろ役職なんて面倒なだけだと思う。給料にも不満はない。
 毎週末出かけたり高額な買い物に目の色を変える同僚達がピーピーいう脇で、俺の財布は暖かい。
 そんな俺にとって、役職なんてのは面倒な責任が付いてくるだけで、何のメリットもない。
 でも断ると後々面倒らしいしなぁ
 チカチカと切れそうな街灯の下で足を止めた。
 三俣にはメールで謝っておけばいい。またギャーギャー言われて面倒だろうが、それを言うなら仕事の方がもっと面倒だ。あの契約は上司が今期のメインとして目標にあげている仕事だから、協力しないと後々うるさいだろう。どちらも断ると面倒だが、どちらがより面倒かと言えば仕事の方なのだと、俺の頭が判断した。
 別に三俣は彼女というワケではない。ヤツの方も、俺のことを特別な存在として見ているワケではないだろう。ただ話しやすい友人の一人としてつきあっているにすぎないのだ。
 俺の代わりくらい、いるだろう。
 軽く夜空を仰ぎながら、一度仕舞(しま)った携帯を取り出した。
 数時間前に感じた違和感など、すっかり忘れてしまっていた。



 そうして夜空を見上げていたのは、ほんの数分のことだった。だが、俺の方が待たされることなど今までに一度もなかったので、時間か場所を間違えたのか?とは思った。
「ごめーん」
 よく通る声が背後から飛んでくる。振り向くと、息を切らした三俣(みつまた)が駆け寄ってきた。
「ごめん、ごめん」
「走ってきたのか?」
「うん」
 三俣は、咳き込みながらそれだけ答えると、なんとか呼吸を整えようと胸を押さえる。冷え切った12月の空気を胸いっぱいに吸い込んだのか、また咳き込んだ。白い息が三俣の顔を少しだけ隠す。
「待った?」
「いや」
 軽く首を横に振る。三俣はホッとしたように、またしばらく胸を押さえる。
 辺りにはクリスマスのネオンが眩し過ぎ、時には軽快な、時にはしっとりとしたクリスマスソングが途切れることなく流れている。
「ごめんねぇ。ちょっと呼び出しくらってさぁ」
「あぁ」
 別に大して待たされたワケではない。三俣がどういう理由で遅れたかなど、興味もなかった。
 俺のそんな態度を読んだのか、三俣もそれ以上言い訳を並べるようなことはしなかった。
「行こっか」
 首を傾げて笑う。俺は、先に立って歩き出す彼女の後ろについて、プラプラと歩き出した。
 もう4日もすればクリスマス。イブはもっと混むのかもしれないが、俺には今でも十分大混雑に感じられる。
 数歩としてまっすぐ歩くことができない。必死に彼女の姿を追いかけると、すぐに疲れてきた。
 なにもこんな混んだところを歩くことないのに
 めんどくさいなぁ
「ほらっ もうちょっとだから」
 俺の不機嫌そうな顔をなだめながら、彼女は振り返って促す。俺は何も答えずにただ黙々と歩いた。
 どれほど歩いただろうか?
「わっ!」
 突然の歓喜(かんき)に思わず顔を上げた。いつの間に下を向いてしまっていたのか?
 人ごみにうんざりし、ただ不満だけを感じながら歩いていたので、俯いていた自分にも気づいていなかった。
「すごいねぇ」
 ため息を混じらせながら呟く三俣のそばで、俺も見上げた。そして、眩しさに目を細めた。
 光の壁が・・・ そう、まさに光の壁が目の前にそそり立っている。まだそこまではだいぶ遠いはずなのに、まるで迫り来るようで、俺達が立っている場所からでも、十分にその大きさを感じることは出来た。
 数年前から設置されるようになった、いわゆるクリスマスイルミネーションというヤツだ。毎年ニュースなどで取り上げられて、好きなヤツなどは毎年見に来るらしい。
 だが俺は、わざわざ人ごみをかきわけて見に行くような代物(しろもの)でもないと思っていた。
 実物を見ている今ですら、そう思っている。
 こうして見上げている間でも、通りを歩く人と肩や背中がぶつかりあい、バカ女が振って歩くブランド品の紙袋が、俺の脚を叩いていく。
 目の前のモニュメントを、すごいとは思いながらもいまいち心から感動できない俺とは対照的に、三俣は(なか)ば虚ろな瞳で見上げていた。
「すごいねぇ」
「あぁ」
 適当な俺の答えも耳には入っていないのだろう。しばしぼんやりと見上げたあと、ようやく俺へ向き直った。
「行ってみようか?」
「はぁ?」
「なによ? いやなの?」
「これ以上混むのかよ」
「ここまで来たんだから、どれだけ混んでようと一緒でしょう?」
 そう言って、俺の腕を掴むとグイグイひっぱりだした。俺は、引きずられるように連れて行かれる。途中で見知った顔とすれ違ったような気もしたが、あっという間に人ごみに紛れてしまった。混雑は進むほどに激しくなり、もう首をまわすこともできない。
「行ってどうするんだよ」
「えー 下歩いてみたいじゃん」
「下って・・・」
 と、問いかけている間に答えが出てきた。光のアーチだ。
 この下を歩くということか
 その場にいる全員が、同じ目的でここに来ているのだろう。人の流れというものができ、三俣に引っ張られずとも、自然に歩かされてしまう。
 だがここでも、途中で立ち止まって写真を撮ろうとしている(やから)によって急に進めなくなったり、足元を子供が走り回ったりで、心地よく歩くことはできなかった。
「やっぱテレビで見るのとは違うねー。ねぇ、来てよかったでしょ?」
 正直、それほど良かったとは思えない。
 去年もおととしもその前も誘われて、そのたびに断っていた。
「混んでんだろ? めんどくさい」
 俺がそう答えるたびに、三俣はブーブー文句を言った。
「いいじゃない、クリスマスなんだから。どうせ他に用事もないんでしょう」
「別にクリスマスだからって、イルミを見に行く必要もねーだろ」
「でもこの時期しか見れないんだから、見に行ってみてもいいじゃない」
「見れなかったら死ぬってワケでもねーだろ?」
「そういう問題じゃないでしょう」
「一人で行けよ」
「つめたーいっ!」
 そういう会話を毎年くりかえし、結局は三俣が呆れて諦めてしまった。今年もそうなるのだろうと思っていた。
「今年は絶対に行こうよ」
 今年の三俣はしつこかった。あまりにしつこくて、断ることに疲れてしまった俺が諦めた。
 春の花祭りとやらを断ったら、その後の追撃がすごかった。毎日メール100件。さすがに降参して、6月には紫陽花(あじさい)祭りとやらに同行させられた。夏にはプールにも行かされた。プールなんて高校の授業以来で、もちろん海パンなんてもってない。手ブラで行ったら勝手に買われて穿()かされて、水の中に突き落とされた。
 水が意外と冷たかった。それだけだ。
 水に突き落とされても大した反応を見せない俺の横で、三俣はちょっとつまらなさそうだった。だが仕方がない。俺がこういう人間だということは、三俣だってわかっているはずだ。わかっていて誘ったのだから、仕方がない。それが嫌なら他のヤツと行けばいい。
「あ、これすごい。蝶々の形してる」
 子供のように歓声をあげる三俣に、俺はため息をついた。
「なによ、そのため息」
「別に。物好きが多いなぁと思ってさ」
「そんな言い方ないじゃない。自分だって来てるんだしさ」
「別に来たくて来てるワケじゃない」
「あぁー、私のせいにしようとしてるでしょう?」
 責めるような言い草に、俺は素直にそうだとは言えなかった。言うとまたギャーギャー言われそうだ。
 疲れるな
 (まぶ)しいほどの電球の中を歩きながら、俺はぼんやりそう思った。この混雑では、どれほど気をつけたところで誰かにはぶつかる。だから、(ほう)けていても同じこと。
 どうして人は、こんな疲れることに労力を使うのだろう? 無駄なことなのに怒ったり笑ったりして、勝手にストレス溜めて悩んでる。
「あ、そう言えば、しばらく連絡取れなくなるかも」
 視線をイルミネーションへ向けたままの、何気のない三俣の一言。俺はぼんやりとしたまま頷いた。



 失恋するなら6月がいいな。
 隣の女性がそう呟くのを聞いたことがある。
 だって、雨が降っていれば泣いていても他の人には気づかれないでしょう。
 向かいに座る女性が笑った。
 雨が降ってたって、泣いてればバレるって。
 そんな会話を聞いたのはいつのことだろう? どこでだろうか?
 俺は、ガラス窓へ目をうつした。
 きっと営業の途中で寄った喫茶店か、出張で乗った新幹線の車内で聞いた会話だろう。どこの誰とも知らない女性の会話などを思い出すのは、きっとこの雨のせいだ。
 6月も半ばを過ぎ梅雨(つゆ)も本格化して、雨の日がもう一週間も続いている。ジメジメとした湿気に、俺は上着を脱いだ。平日の三時。ガラガラのファミレス。
 外を歩く女性が、手にした花を濡らさぬよう傘と悪戦苦闘(あくせんくとう)している。彼女の手元で、紫陽花が揺れた。
 そういえば、去年は紫陽花祭りとかに行かされたな。
 あいつ、どうしてんだろう?
 イルミネーションを見に行った日以来、彼女とは連絡を取っていない。取っていないというか、連絡が来ない。俺からメールを打つことなどなかったから、彼女からメールが来なければ、自然と連絡が途絶える。
 もともと通勤中にゲームをする為に買った携帯だ。メールの相手など、三俣(みつまた)以外には一人もいない。メル友など、欲しいとも思わない。
 しばらく連絡ができないと言っていた。その時は気にも止めなかった。なぜなのかとか、どのくらいの間なのかとか・・・
 今でも大して気にはしていない。むしろ俺の生活に平安が戻ったことに、喜びを感じる。
 仕事、忙しいのか?
 椅子の上に脱いだ上着のポケットが震えた。震えているのは会社から支給された携帯。俺は、ノロノロと電話に出る。
「もしもし」
「おい、お前っ! 今どこにいるっ!」
 相手も確認せずに大声をあげる上司。俺は咄嗟(とっさ)に言葉を失った。
 どこって、どう答えればよいのだろう? ファミレス? いや、そんなことを聞いているワケではないのだろう。
 電話の向こうは、俺の答えを待たずに続ける。
「お前っ、契約交わしに行ったんじゃないのかっ?」
「はい。そうですけど」
「書類どうしたっ!」
「持ってますけど」
 バカヤロウッという怒鳴り声が、キーンと俺の頭を突き刺す。
「下請けに書類持って行かねーと、今日中に手配できねーだろっ! 先方から今電話があったぞ。下請け手配の確約のFAXが届いてねーってな。あれほど至急と頼んでおいたのに何やってんだって、カンカンだったぞっ! どこほっつき歩いてるんだっ!」
 俺は携帯を耳に当てたまま慌てて上着と鞄をひっつかむ。上司の怒鳴り声は大きい。レジの女性にも聞こえているのだろうが、すまし顔で会計をする。金を払って出ようとするところに甲高い呼び声。
「あっ お客さまっ おつりっ!」
「っん? なんだお前。今の声は? どっかの喫茶店でサボってたな?」
 ヤベッ!
 俺は適当に謝って携帯を切り、同時におつりを受け取ると店を飛び出した。
 忘れていた。さっき契約した仕事、一時間以内に下請けに見せて手配するはずだった。
 すっかり忘れていた。
 じっとりと湿る額を拭いながら車に飛び乗った。



「どうしたんだ? 最近おかしいぞ?」
 視線を後頭部に受け、振り返る。上司が腹を揺らし、首筋に流れる汗を拭いながら近寄ってくる。
「この間の集金もすっぽかしたろ?」
「すみません」
「先週の部会の資料も忘れてたよな?」
「すみません」
 再度謝りながら、俺は頭を下げた。
 本当におかしい。今までこんなミスはしなかったのに。疲れてんだろうか?
 いや、そんなはずはない。
 うるさい三俣から開放されて、週末も連休ものんびりと過ごせて、疲れるはずはない。
 そう言えば、去年の今頃はキャンセルした花祭りの件で毎日膨大なメールを送りつけられ、大変だったな。お陰で紫陽花祭りなんてのに付き合わされて・・・
「おいっ!」
 ハッと目を見開いた。眉間にしわを寄せた中年男性が、ブスッと睨みつける。
「聞いてるのか?」
「あ、はい」
「聞いてなかっただろ?」
「・・・いえ」
「お前、この頃ぼんやりし過ぎだぞ」
「すみません」
「何かあったのか?」
「いえ」
 言葉を濁す俺に、上司は大きく息を吐く。
「まぁ、誰にだって悩みはあるだろうけど、あんまり抱え込むなよ」
「別に悩みなんて」
「無いようには見えんがな」
 俺の肩をポンポンと叩く。
「まぁ、ミスは誰にでもあるさ。とにかく仕事に自信を失くすなんてことにはならないでくれよ。頼りにしてるんだからな」
「はぁ」
「押し付けるつもりはないが、お前に目をかけた俺の立場ってのも少しは考えてくれよ」
「・・・はい」
「お前がウチの部に来たのは・・・5年前だったか?」
「それくらいになると思います」
「5年かぁ」
 遠くを見つめるように呟く。
「お前は頼りになるヤツだよ。今回の仕事だって、お前がいなけりゃ取れなかった仕事なんだからな」
 もう一度、肩を叩く。
「とりあえず、今回の件はあまり気にするな。相手も挙げた(こぶし)を収めてくれたんだ」
「はい」
「じゃあ、さっきの件、頼んだぞ」
 上司は喫煙ルームへと去っていった。
 俺は、数分前に手渡された書類の入った鞄を持ち直し、地下の駐車場へと向かった。
 5年前・・・
 それまで所属していた営業部から、今の営業部へと移された。理由はいろいろあっただろうが、ノロいというか、あまりにマイペース過ぎるのが良くなかったのだろう。
 別に何とも思わなかった。好きでこの会社にいるワケでもない。無理に他人に合わせるくらいなら、クビになった方がマシだとすら思った。
 そうしたらまた別の仕事を探すだけさ。フリーターってのでもかまわない。
 みっともないなんて思わない。誰にどう見られようと、俺には関係のないこと。他人の視線を気にしたって、人生がどうなるワケでもない。
 疲れるだけ・・・
 新しい部でも、仕事に精を出すつもりはなかった。だが、なぜだか契約が上手く進むことが多くなった。
 5年前・・・
 そう言えば、三俣と再会したのも5年前だったな。
 ぼんやりとアクセルを踏む。
 あれから5年。
 俺はなにかと三俣に振り回された。そのたびにうんざりし、ぐったりした。
 仕事が忙しくなり、誘いを断るたびにギャーギャー(わめ)かれた。メールの受信も多くなった。
 三俣・・・どうしてんだろう?

 ドオッーン!

 まるでミサイルでも落ちたかのような破壊音と衝撃で、俺は我に返った。何が起こったのか、しばらく理解できなかった。
 俺の乗る社用車に追突された車は、数メートルも弾き飛ばされていた。



「そんなに飲むと、また路頭で朝を迎えることになるぞ」
 その言葉に感じた違和感。違和感というより、妙な懐かしさ。昔の俺は、もっと他人に興味を持っていた。どうしたらみんなに追いつけるのか? どうしたら遅れずに済むのか?
 俺は小さい頃から何事も遅い子供だった。立つのも歩くのも近所の子より遅かったという。走るのも泳ぐのも遅く、頭の回転も遅い。パズルゲームや間違い探しなどをしても、他人より早く正解を見つけたことなど、一度もなかった。
「早くしなさいっ」
 それが母親の口癖だった。
 早くしなくちゃ
 そう(あせ)れば焦るほど、何も考えられなくなって、どんどん遅れていった。
 自己主張や好奇心が芽生えるのも遅かった。俺がようやく外の世界に興味を持ち始めた頃、同年代の少年はすでに動き始めていた。夢に向かって家を飛び出すヤツらの姿を、俺は後ろから眺める形になっていた。
 俺が何かする前に、誰かがその結果を教えてくれた。
 そのたびに、急かされた。
 疲れる・・・
 俺は、他人を追いかけるのを辞めた。無理矢理急かされると、うんざりと疲れた。
 めんどくさいなぁ 遅くたっていいじゃん
 俺は、遅くたっていいんだ。俺は俺。他人は他人。



「まぁ、死者が出なかっただけ幸いだよ」
 疲れたようにタバコの煙を吐く。
「タバコは喫煙ルームでお願いします」
 すれ違いざまに女子社員が呟く。上司は肩を(すく)めた。
 俺の車に追突された相手はムチ打ちで済んだが、高齢者であった為、完治するまでに時間がかかるらしい。
 勤務中だったし社用車を使っていた為、会社も巻き込む結果となってしまった。しかも原因は俺の前方不注意。
「まぁ、二ヶ月なんてあっという間さ」
 二ヶ月の謹慎処分。当然だ。
 支店長室を出ると同時に、周囲からささやかな視線を感じた。コソコソと隠し見るような視線を受けても、辛いとは思わなかった。社内でどう見られているかなんて、どうでもいいことだ。
 少し痛めた首に手を添える。
 気にするだけ、疲れるだけだ。
 上司に見送られ、一人で事務所を出た。
 外は雨。
 霧雨(きりさめ)の中を、傘もささずに歩き出した。
 二ヵ月後に戻ってきた時、俺に仕事はあるのだろうか? 今受け持っている仕事からは外されるだろうし、上司だってさすがに擁護できないだろう。
 別にどうでもいいことさ
 気にしたって仕方がない
 ・・・・疲れたな
 俺は立ち止まった。
 何に疲れたというのだろう?
 頭の中に黒い霧が立ちこめ、俺は焦った。
 何だというのだ?
 いや、考えるのはよそう。考えるなんて無駄なことだ。疲れるだけだ。
 そう思うのに、なぜだか霧は深くなる。
 焦る俺のズボンのポケットが震えた。
 取り出した携帯。相手先を見て目を丸くした。そうして、半年ぶりに届いた三俣からのメールを開いた。
【結婚しましたぁ〜。私もギリギリ29歳でセーフでーす^^ 河野くんも早く幸せになりなよ】
 俺は固まった。本当に固まった。
 何かしなければいけないと思う頭に、身体がついていけない。
 添付されている三俣の顔。胸元に揺れる白いレースと、頭に被る白いヴェール。それらが、冗談でないことを物語っている。
 目の前に、再会した時の三俣が甦る。俺の顔をじっと見つめ、やがて目を大きく見開き、嬉しそうに声をかけてくる彼女。繁華街の飲み屋で、顔を真っ赤にしてゲラゲラと笑う彼女。気まぐれのように誘われた遊園地で、後ろを歩く俺を振り返る彼女。
 いろいろな三俣が、走馬灯のように目の前を駆け巡る。
「しばらく会えなくなるかも」
 その言葉は半年前。
 そうか。結婚するから、もう他の男とは会えないという意味だったのか。
 淡々とそう考える。なのに、なぜだか胸に吐き気が湧き上がった。
 再会してからこの5年、彼氏ができたなどと話したことはなかった。5年前に再会した時、本当はすでに彼氏がいたのかもしれない。俺のことなど、所詮(しょせん)は遊びだったのか。気分転換に付き合う程度だったのか。
 いいじゃないか。お前だって、所詮は友達程度だったんだろ?
 そう言い聞かせるのに、なぜだか激しい感情が込み上げる。
 夢中で携帯のボタンを押した。
【現在は何も録音されていません】
 無感情なメッセージに舌を打つ。別のボタンを押す。エラー音が鳴る。
「っ!」
 メチャクチャにボタンを押した。だが、送られてきたメールも、添付されている写真も、削除することができない。
 どうすれば削除できるのか、操作をとっさに思い出せなくて、ただ必死にボタンを押しまくる。
「くそっ!」
 遊ばれていたという事実に腹が立ち、頭が回らない。
 腹なんて立てるなよ。疲れるだけだぜ。
 わかっているのに腹が立つ。なぜなのだ?
「くそっ!」
 突然、携帯の画面が動いた。添付されている三俣の顔が上へとスクロールされ、下から文章があがってきた。
 続き?
 俺はゆっくりと画面を動かした。
【河野くんも早く幸せになりなよっ     でも】
 でも?
【でも、私よりも幸せにならないでね。だって、河野くんを諦めた自分の人生を、後悔しちゃうかもしれないから】
 ・・・・
 言葉を失い、空を仰ぐ。
 卑怯だと思った。なぜ最後にこんな言葉を添えるのか。なぜ・・・
 社内での俺の立場が好転したのは5年前。三俣と再会したのも、5年前。
 もし本当に嫌ならば、三俣との縁を切ることなど容易(たやす)かったはずだ。三俣からの連絡が来ようと来るまいと、気にも留めなかったはずだ。
 二人で見たクリスマスの光は、俺の人生に何の影響も与えなかったのだろうか?
 どうして俺は、三俣に腹を立てたのだ? どうして遊ばれていたなどと、思ってしまったのだ?



「失恋するなら6月がいいな」
 高校3年の6月。なかなか止まない雨をぼんやりと見つめる俺の横で、つぶやく声。何気なく振り返る視線の先で、三俣が曖昧(あいまい)な笑みを俺に向けた。小さく開いた口と、それとは対照的に大きく見開いた瞳。一瞬だけで何も言わずに逸らされた視線。
「だって、雨が降っていれば泣いていても他の人には気づかれないでしょう」
 向かいに座る女子生徒が笑った。
「雨が降ってたって、泣いてればバレるって」



 俺は覚えている。
 そう、俺は覚えている。その言葉も、その時の視線も。
 いつの間にか髪の毛はしっとりと濡れ、前髪から雫がポタポタと落ちる。携帯を手にした腕をダラリと下げた。
 卑怯だ。なぜ最後にこんな言葉を・・・
 ・・・卑怯なのは誰だ?
 俺は、三俣の気持ちに気づいていたはずだ。ただ、気づいているという自分にも、気づかなかった。
 濡れる手で携帯を操作する。うまく操作できないのは、手が濡れているからか、それとも手が震えているからなのか?  メールを返信し、そのまま茫然と俯いた。


 そうして、どれほど経っただろうか? ほんの数分だったのかもしれない。
 しつこく震える携帯に目を落とした。着信画面に・・・生唾を呑んだ。
「・・・もしもし」
「もしもし?」
 (かす)れる俺の声とは対照的な、よく通る声。三俣(みつまた)と俺は、そういえば何もかもが対照的のような気がする。
河野(こうの)くん?」
「あぁ」
「あの・・・」
 そこで言葉が途切れた。
 俺の目の前に、躊躇(とまど)う三俣の顔が浮かぶ。小さく口を開き、それとは対照的に大きく開いた瞳・・・
「メール、ありがとう」
「・・・あぁ」
「びっくりした」
「あぁ?」
「こんなにレスの早い河野くんって初めてだから」
 早口で説明する。
 そうだな。俺がメールを打ち返すことなんて、ほとんどなかった。
「あのっ」
 再び言葉を詰まらせるが、やがて意を決したように息を呑む。その音が、こちらにも伝わる。
「ありがとう」
 その意味が、俺にはわかった。
 俺の短い返信メール。

 おめでとう

「じゃあ」
 そう言って切ろうとする三俣に、俺はどうして叫んだのだろう?
「待てっ!」
 俺は叫んでいた。
「待て」
「え?」
 驚いたような三俣の声に、自分でも驚く。
「三俣」
 俺は
「なに?」
 俺は、三俣のことが好きだ。
「・・・ 綺麗だぞ。写真」
 電話の向こうが息を呑む。ややあって、声が聞こえた。
「ありがとう」
 隠すように鼻をすする音。
「河野くん」
「じゃあ」
「あっ 河野くんっ!」
 俺の方から切った。三俣の声も聞かずに切った。それ以上、何も言わせてはならない。
 5年も、いやもっと前から気づいていて何もしなかった俺の、それが義務であると思った。
 悪いのは三俣ではない。
 好きだと言うこともできず、言わせることもできなかった俺が悪いのだ。
 めんどくさい。関係ない。
 そんな理由をこじつけて他人と比較されることに卑屈になっていた、臆病な俺が悪いのだ。
 こんな俺の、どこが良かったのだろう?
 そっと携帯を握った。
 メールは残しておこう
 三俣という存在が、小さな俺に、ささやかな誇りを持たせてくれるような気がするから。
 好きだと言うことも言わせることもできなかったのに、好かれていたという事実を誇りに思うのは、(いささ)か勝手過ぎるだろうか?
「綺麗だぞ」
 感謝を込めて呟くと、目頭に痛みを感じた。押しつぶされそうな胸の苦しさは、(なつ)かしくて温かい。



 失恋をするなら6月がいい。
 その言葉を噛みしめ天を仰ぐ俺の顔を、しっとりと雨が濡らす。顔も髪の毛もびしょぬれで、だから俺は目を閉じて・・・・泣いた。




== 完 ==


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背景イラストはPearl Box 様 よりお借りしています。




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