部会が始まった時には、教室の隅に座っていたはずだ。いつの間に教室を出たのだろうか?
誰もがそう首をひねる中、真壁はスタスタと黒板の前に立つ。そうして、無駄のない動きで教卓の上にガツッと置いた。
それは小さなラジカセ。どうやら、いまどき珍しいカセットテープ専用だ。
「あのっ」
完全に無視された司会者が擦かすれた声を上げた。がしかし、やはり無視された。
真壁は無言でボタンを押す。テープがクルクルと回り始める。ジジジジッという雑音に混じって、微かに歌声のようなものが流れる。だが、非常に小さく聞きづらい。
怪訝に聞き入る皆の間に、やがて微かに、扉の開く音。
「デカイ声だな」
「だろ」
またしばらく無音。
カサカサと、紙の擦れる音。
「火曜日と木曜日はいっつもあんな風に歌ってる。顧問に許可もらってるらしいから、ワザワザ咎めにくるヤツもいねぇしな。だからオレらが忍び込んだのもバレないってワケ」
「山分けするには恰好の場所ってワケか」
クスクスという笑い声。
千佳は思わず両手で口を覆った。真壁を見ると、彼女はまっすぐに菊池を見ている。
「あんたが音楽準備室で何してたかなんて、私はもうずっと前から知ってたの。いつもどこに隠れてるのか知らないけど、私が歌いだすとすぐに準備室に入ってくるのよね。私が気づいてないとでも思ってたの?」
菊池の顔から笑みが消えた。そう、仮面の下の笑顔がない。
「せっかく静かに練習してるのにコソコソとうるさいから、何やってるのかなと思ってね。半年くらい前からラジカセで録音してたの。気づかなかった?」
そうか。最初に準備室に入ってきたのは、ラジカセをセットしにきたのか。
「半年前からのテープ」
言いながら右手を真っ直ぐに伸ばし、人差し指で指し示す。
振り返った先には顧問の神埼。片手には紙袋。
「菊池」
紙袋を持った手を軽く上げた。
菊池はヨロヨロと座り込む。座り込みながら、薄っすらと口元に笑みをのぼらせた。
「もともとは、自分の声を録音するために使ってたんだ」
パックのカフェオレを啜る真壁の姿は、普通の女子高校生となんら変わりはない。ただちょっと、表情に乏しいだけ。
「会話を録音して、あいつらが何やってるのかすぐにわかった」
「じゃあなんで、誰かに言わなかったの?」
「めんどくさい。面倒なことに巻き込まれるのもヤだったし。それに…」
チラリとこちらを見る。
「まったく気づかないあんた達もバカだなぁと思って」
ちょっとカチンとくるが、何も言い返せない。
「あいつが何やってたって、別に私には関係ないし。だから誰にも言わなかった」
「じゃあ、なんであそこでテープを出してきてくれたワケ?」
「あんたみたいなのもいるんだなぁって」
千佳に対して言っているのに、視線はもっと遠くを見ている。
「あんたが正しいこと言ってるのにさ、ちゃんと証拠を持ってるのにさ、ただ面倒だからってみすみす見殺しにするのって、ちょっと卑怯かなって」
真壁の隣に座る千佳も、その隣に座る直美も、どちらも何も言えない。
あの時、自分がどうしてあんなことをしてしまったのか、今でも千佳はわからない。刺すような視線を思い出すと、今でも全身が震え出し、涙が出てきそうになる。
敢えて理由をこじつけるなら、きっと自分は………
自分は、合唱部のみんなが好きなのだ。あのお人好しで騙されやすいみんなが…… 限りなく好きなのだ。
「私さ、本当は音楽科のある私立に入りたかったんだよね。でも入試直前でお父さんが失職してさ。家も売ってお母さんの実家に越してきたんだよね。それと同時に入りたかった高校も諦めて……」
遠くを見つめる真壁の顔はまるで石像のように、口以外はまったく動かない。
「お父さんの会社、なんか不正をしてたらしくって、それがバレて業績が悪化して、大量リストラして…」
その声が、だんだんと小さくなる。
「お父さん達が悪いワケじゃないのに…」
うつむく顔がさびしく笑う。
「でも、世の中ってそんなもんなのかなって。せっかく一生懸命勉強したのに、希望の高校に入れなくって…… 気持ちが冷めちゃってたんだよね。なんか世の中って、人間ってつまんないなって思えてさ」
周囲が楽しく騒げば騒ぐほど、気持ちが冷めていった。特に合唱部は根の明るいヤツが多かったから、それが逆に真壁を孤立させた。心配して声を掛けてくるのが、逆にウザかった。
でも、合唱部は辞めなかった。声楽の夢を、諦めることができなかった。周囲には声楽スクールに通っていると嘘をついて、放課後の音楽室を借りた。
神埼は、何も言わずに音楽室を使わせてくれた。だから余計に、神崎が顧問を務める合唱部を辞めたくなかった。
「別に部費がどうなろうと、私には関係ないしさ。だから菊池が会計になったって、私は構わなかったんだけどさ」
ようやく千佳を見る真壁が、ヘタくそに笑う。寒さで少し赤くなった頬に、形の良い唇。澄んだ瞳が揺れて、視線が外れる。
「なんていうか、お人好しのお節介ってのも、見ていて気持ちいいかなって」
きっと真壁も、そんなみんなが好きなのかもしれない。
千佳は、そう思いたい。
準備室の床に這い蹲って、こっそり聞いた歌声が甦る。深く広く、包み込むような歌声。夢を諦めきれず、ただ一心に歌い上げる彼女の姿が目の裏に浮かぶ。
「ごめんね」
口から自然と出た。
「お人好しでお節介だけど、でも、鈍感だよね」
「そだね」
直美が続く。
「真壁さんのことも菊池くんのことも、ちっとも気づかなくってさ」
「仕方ないよ。気づかれないようにしてたんだから」
秋の夕暮れ。公園のベンチ。目の前を、他校の生徒が通りすぎてゆく。
きっと千佳たち三人は、仲の良い三人組だとでも見えるのだろう。
「気づいてもらいたかったら、そういう努力をしなくちゃね」
「そだね」
しかしできるなら、こちらから気づいてあげるべきだった。
ただ歌いたいという真壁の想いに気づいていたら、その歌声を冷たいとは感じなかっただろう。
真壁の貯めた、半年分のテープ。もし本当にどうでもよかったなら、そんなにも貯め込むことなどしなかったはずだ。
いつか、誰かが気付いた時に…
見上げると、夕焼けに瞬く薄い星。
疑いは時として人を傷つける。しかし、隠された真実は見抜かなくてはならない。見抜けなければ、やがて真実は捻じ曲げられ、誤解が生じる。そして、見抜いた真実を……
千佳は思わず目を閉じた。
菊池が最後に見せた、おぞましい笑顔。告発されても笑っていられる、本当の菊池。
気付かなかったら今頃…
ゆっくりと、目を開ける。
「みんなすぐに忘れちまう」
「似たような犯罪なんて、次から次に沸いてくるんだ。一ヶ月前の事件なんて、ほとんどの人間は覚えてねーよ」
―――――そんなことないっ
千佳は必死に言い返す。
そんなことないよ。
私はきっと忘れない。こんな怖い思いをして、忘れるはずがない。私はきっと、菊池くんを忘れない。
今でも反省はしていないだろうと思うと、吐き気のような感情が競り上がってくる。
渦巻く胸の内を浄化するように、大きく息を吸う。
真実は見抜かなくてはならない。だが…
「難しいなぁ」
ストローを咥え、上目遣いに夕焼けへ視線を送る。その黄昏に目を奪われながら無意識に啜ったオレンジジュース。
少し酸っぱくて、千佳は緩く眉を寄せた。
== 完 ==
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