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クピドの風船(ふうせん)
誘木(いざなぎ) (めい)

   扶巳(ふみ)は動けない。篠原(しのはら)裕樹(ひろき)の吐息が、もうすぐそばで感じられる。
 男らしい眉に少しだけかかる前髪。色は浅黒く、彫りは少し深め。瞳は黒く、鼻筋の通ったバランスの良い顔立ち。色の薄い唇が開いた。
「そんなにオレの事、嫌い?」
 その口元に笑みはない。瞳がまっすぐに扶巳を見つめる。
 どうしてこんなことになったのか?
 扶巳は、生唾を呑み込んだ。




 げげっ
 思わず足を止める。目の前に立ちはだかる集団。ほとんどは同じ学校の女子生徒。その中で、頭だけ飛び出た後ろ姿。
 同じクラスの篠原裕樹。
 首を動かすと髪が揺れて、後ろからでもその甘い横顔を拝むことができる。周囲の女子生徒に見せる笑顔。扶巳は吐き気すら感じた。黒い瞳が朝日に輝く。その光が、すばやく揺れる。
牧野(まきの)
 取り巻きの視線が一斉(いっせい)にこちらへ注がれる。睨まれているようにも感じる。
「偶然だな」
 朝からウザい。あんな女ったらしとは関わりたくない。
 扶巳は迷わず横道に反れた。公園を突っ切ればアイツの前に出られる。後は学校まで猛ダッシュだ。
 天気も良くて、学校へ行くのがもったいないくらい。だがこの時間帯では、小さな公園には誰もいない。なのだが
 子供?
 見ると、近くの幼稚園の制服を着た子供が、わーわー泣き声をあげている。木の枝に赤い風船。大した高さではないが、子供では届かない。悪戯っ子のようにフワフワと引っかかっている。
 こんな時間に一人?
 思わず立ち止まった。
「ねぇ、子供の泣き声しない?」
 振り返ると、あの集団の影。
 ヤバッ!
 この距離だと、たとえ必死に走っても公園を出る前にアイツが来てしまう可能性がある。後ろから声をかけられても無視すれば良いのだが、泣いている子供を置いて走り出したら、まるで扶巳が泣かしたかのようだ。そんな誤解をされたら、学校でどんなチョッカイを出されるかわからない。
 扶巳は子供に駆け寄ると、風船の紐に手をかけた。見るとけっこう複雑に絡まっている。だが、時間に余裕はない。紐を引きちぎると、片手に風船、片手に子供の手を引き、そのまま草むらに飛び込んだ。
「ほら、風船」
 それを見て子供が泣き止むのと、集団が入ってくるのが、ほぼ同時。
「あれ? 誰もいないじゃん」
「声も聞こえない」
 子供の頭を抑え風船も押さえ込み、自分もしゃがみこむ。フワリとした巻き毛が扶巳の頬に触れた。風船を受け取って笑う子供の口に、人差し指を当てた。
「静かにしててね」
 風船を取ってくれたのだから、この人は良い人だ。
 子供はそう解釈したのだろうか? それとも、ちょっとドキドキするようなこの状況が気に入ったのだろうか? ニコリと笑うと、両手で自分の口を抑える。
「やだぁ、ちょっと怖い」
「いこいこ」
 女子生徒たちは勝手に騒ぎながら、篠原裕樹を囲んで公園を出て行った。
 ふーっ
 完全にヤツらの声が聞こえなくなるのを待って、ようやく立ち上がる。
「ったく、朝から疲れる」
 集団が消えた方角を睨んだ。
「篠原・・・」
 口にもしたくない名前だが、あまりの腹立だしさに思わず呟く。そうして、まだしゃがみこんでいる子供を見下ろした。
「ごめんね」
 だが、子供はいない。
 いない?
 辺りを見渡した。公園は柵で囲まれていて、出入り口は二箇所しかない。どちらも扶巳のいる場所からは近くはない。まして幼稚園児の足では、こんな短期間で出て行くことはできないはずだ。かといって、柵を越えられるはずはない。
 え?
 思わず眉間にしわを寄せた時だった。
「成功です!」
 脳天を(つんざ)くような甲高い声。思わず飛び上がる。
 どこから聞こえるのか。見えない存在に、さすがに怯える。
「ここですよ。ここっ」
 と言われても、やっぱりわからない。
「もうちょっと上っ、木の上ですよ」
 木の上?
 言われた通りに見上げてみる?
 え? 虫?
 いや、違う。こんなデカイ虫はいない。はずだ。
 小さいが人の形をしている。頭もあって、手も足もある。手の平に乗せるには少し大きい。だが、人間にしては小さすぎる。
「成功しましたよ」
 そして、ニコニコ笑いながらこちらに手を振っている。
 扶巳は、しばらく何もできない。何も言えない。
「もしもーし」
 そう呼びかけられても、答えられない。
 これ、何?
 ただその疑問だけが、頭の中をぐるぐるめぐる。
「あー、ビックリするのはわかりますけど、もうちょっと反応してくださいよ」
 扶巳の態度をある程度予測はしていたらしい。納得というように、だがうんざりしながら腕を組む。
「私の姿を見るなんて、きっと初めてでしょう? 一生見えないままの人もいますからね」
「これって・・」
「おっと、私は物ではありませんよ。これ(・・)という表現は、辞めていただきたいですね」
 しゃべってるよ
「私はクピド。妖精とか精霊とか、いろいろ呼び名があるみたいですけど、何と言われるとクピドとしか答えられませんね」
 どこから出しているのかわからない、人形劇やアニメの登場人物のような、ふざけた声。
「クピド?」
「はい、そうです。普段はこんな風に姿は見えないんですけどね。ちょっとヘマやってしまって。本当にお世話になりました」
 そう言って、クピドはペコリと頭を下げる。
「え?」
「風船を取ってくれたでしょう?」
 ハッとして、辺りを見渡す。やはりあの子供はいない。
 もう一度木の上を見上げる。そう言えば、あの子供に似ていなくもない。小さいだけでなく、表情もどことなく幼い。白い肌にクルクルの巻き毛。身に着けているモノは白い布のようなもの一枚で、そこから出ている手も足も、全体的にもち肌っぽくて、クリクリした瞳が愛らしい。
「あの風船、実は私の移動手段でして。あれがないとどこにも行けないんですよ。もちろん羽はありますが、飾りみたいなもんでしてね。鳥みたいにバタバタさせて移動するような代物ではありません。まぁ高いところから飛び降りる時に広げて、空気抵抗で着地の衝撃を和らげるくらいのもんですよ」
 確かにクピドの背中には羽がある。小さな身体に比べてさらに小さな背中の羽は、なるほど、大して役に立ちそうもない。だが、淡い光を放つような羽を背中でフンワリ揺らしている様は、まるで天使のようだ。
「あんた、天使?」
 バカなことを、と思いながらも言ってみる。相手はカラカラと笑った。
「私たちのことをそう呼ぶ人もいるようですね。でも実際、天使というのがどういうものか私にはわかりませんから、そうだとも違うとも言えません」
「じゃあ、何?」
「クピドです」
「だから、クピドって何よ!」
 だんだん腹が立ってくる。ペラペラとしゃべるワリには、知りたいことがわからない。
「えっと、恋の天使・・とでも言えばよいのでしょうか?」
「恋?」
「えぇ、そう言われているそうです。私たちは人間の心から愛情が消えてしまわないよう、毎日決まった数だけ愛の矢を射るのです。その矢に当たった人は、誰かに恋してしまうとか。愛情って、生きていくうえで必要なものですからね」
 愛情? 恋? 矢?
「それって、恋のキューピッドってやつ?」
「あぁ! そうそう、そう呼ぶ人もいるそうですよ!」
 クピドはパチンッと両手を叩く。
 これって、夢?
 しかし、いくら目を擦ってみてもクピドは消えない。そのペチャクチャとしたおしゃべりも、はっきり聞こえる。
「でもね、私たちにはそれしかやることが無いというか、他に才能がないというか。ですから、あなたのように親切にして下さった方には、大したお礼もできないのですよ」
「お礼って」
 この状況を理解したワケではないが、とりあえず遠慮してみる。しかし、そんな扶巳の態度は完全に無視された。
「いえいえ、そういうわけにはいきません。ちゃんと私なりのお礼はさせていただきました。大丈夫です。成功しましたから。大成功です。こんなにうまくいくのって、仕事でもなかなかないんですよ」
 クピドはしゃべりながら、除々に興奮してきている。
「本当にすごい! これはもう大成功ですよ」
「あっ、あの、大成功って?」
 言葉を挟むのも一苦労だ。
「矢が命中したんですよ。しかもここ、ハートの真ん中に。これはもう間違いなく大恋愛ですよ」
「え? 誰に?」
「誰にって、あなたの想う人にですよ。彼は間違いなくあなたを好きになりますよ。これであなたの恋は間違いなく大成功ですよ!」
 へ?
 私の想う人? 私の好きな人? 誰よ?
 皆目見当がつかない。そもそも、自分が誰かに恋をしているという自覚もない。
「あの、私の好きな人って・・・」
「やだなぁ もう」
 困ったようにクピドが笑う。
「篠原って、ちゃんと名前を言ったじゃないですか。しかも、あんな思いつめたような顔で彼が去っていった方角を見つめちゃって」
 冗談!
 頭から、血の気が引いた。




 息を切らせて教室に飛び込んだ。
 担任のメガネがキラリと光る。
「牧野、珍しいな。お前が遅刻なんて」
 ヒソヒソと周囲がザワつく。
「すみません」
 切れる息の間からそれだけ言う。
「以後、気をつけるように」
 担任の態度に、周囲は不満の声。
「それだけかよ」
「ったく、勉強のできるヤツは得だよな」
「夜遅くまで勉強のしすぎじゃないの」
 一番後ろの席からワザとらしい女子生徒の声。ドッと笑い声が起こる。扶巳はひらすら無視をして、まっすぐに自分の席へと向かった。
 汗をぬぐい、教科書を出す。
 ポトッ
 扶巳の手元に何かが落ちた。くしゃくしゃに丸められたゴミのようなもの。飛んできたと思われる方角を振り返る。黒い瞳が、静かに笑っている。
 扶巳は慌てて視線を外した。前へ向き直り、投げられたものを握りしめる。
 どうせあの篠原のことだ。バカだとかアホだとか、くだらないコトでも書かれているのだろう。
 無視無視
 メモを見ることなく、そのままスカートのポケットにしまった。
「間違いなく、彼はあなたに恋をしますよ」
 クピドの言葉が、耳の奥で木霊(こだま)する。
 冗談じゃない。なんでアイツが私に恋するワケ。なんで私の好きな人が篠原になるのよ? どこをどう誤解すればそうなるんだっつーのっ!
 いつも女に囲まれてヘラヘラして。バスケ部のエースだからってちょっといい気になって。成績だっていつも上位にいるらしいけど、それを鼻にかけちゃってさ。しかも、いつも私には負けるからって、何かにつけてちょっかい出してきた。ホンット、ウザい!
 校内や登下校時など、顔を合わせると必ず声をかけてくる。
 彼の周りには必ず数人の女子生徒がいる。ファンクラブの会員らしい彼女たちは、篠原が親しげに扶巳に声をかけるたび、すごい形相(ぎょうそう)で睨んでくる。
「裕樹も裕樹よ。なんであんなガリ勉に声をかけるワケ!」
「からかってんじゃないの。男っ気ないからさ」
「はぁ、なるほど。お情けか」
「じゃあアタシたちも構ってあげる?」
 油断すると、篠原ファンクラブのストレス解消機に成り下がりかねない。
 はっきり言って、こっちは迷惑なの。それが何? 恋ですって? 冗談じゃない!
 クピドが言うには、矢はこれ以上ないほど正確にハートを射抜いていたらしい。篠原の心には、もう恋が芽生えているだろう。




「冗談じゃないわよ!」
 ペチャペチャおしゃべりでイラついていたのも相俟(あいま)って、ついに爆発の叫びを上げる。
「私はねぇ、あの男が嫌いなの。恋なんてとんでもない。冗談じゃないわよ!」
 怒鳴り声に、さすがのクピドも口をポカンと開けたまま。目もまんまるくして固まってしまう。
「え? 嫌い?」
「そう、嫌い」
「好きではないと?」
「そう、大っ嫌いなの」
 開いたままの口がピクピクと震えだし、やがて両手で頭を覆う。
「そ、それは本当なのですか!」
「本当なの。だから恋なんてやめて。その、篠原を射抜いた矢も、取ってきてよ。あんなヤツに恋されたら、こっちが迷惑よ」
「ダメなんです」
 震える声で短く答える。
「射抜いた矢はそのままその人と一体化してしまうので、抜くことができないのですよ」
「じゃあ」
「彼の恋心を止めることは、もうできないのですよ」
「えぇ!」
「申し訳ありませんが、彼はあなたに恋してしまいます」
「なしにできないの?」
「できません」
「ちょっと、これってあんたのミスでしょう! なんとかしなさいよ」
「そう言われても」
 ギャイギャイと責め立てられて、クピドはいっそう頭を抱える。その姿は頼りなく今にも泣き出しそうだ。これではまるでいじめっ子といじめられっ子ではないか。
「まぁいいわ。私が断ればいいだけだし」
「えぇ、でも矢はしっかり刺さってしまいましたから、彼の恋心は半端じゃないですよ。あなたに振られたとしても、そう簡単には諦めないでしょう」
 なんなのよっ!
「あのぉ、そんなにあの方がお嫌いですか?」
 おずおずと尋ねるクピドに、力強く頷く。
「では、一つだけ彼の恋心を止める方法があります。あまりお勧めできませんが」
「なにっ!」
 顔を見るだけで吐き気がするのだ。好かれて付きまとわれるなんて冗談じゃない!
「彼はそのうち、きっとあなたに気持ちを打ち明けるはずです。その時、返事をする代わりに彼の左胸を人差し指で突いてください。そうすると、彼はあなたに関するすべての事を忘れてしまいます」
 クピドの瞳は、少し苦しそうだ。
「でも、本当にあなたのすべてを忘れてしまいます」
「構わないよ」
 別に大した仲でもない。ヤツにしたって、忘れて困るような記憶など何もないだろう。
「もちろん、いくら彼の恋心が果てしないと言っても、あなたが拒みつづければいつかは諦めるでしょう。できればそちらの方法がお勧めなのですけれどね。でもあなたの様子を見ていると、どうも相当お嫌いのようですので、彼が非常に深く傷ついてしまう可能性もあります。私のミスで、傷つくはずのない人を傷つけてしまいたくはありません」
「傷つきゃしないわよ」
 大袈裟(おおげさ)に両手で顔を覆うクピドに冷たい一瞥(いちべつ)をくれてやる。
 噂では、とっかえひっかえ女と遊んでいるらしい。そんなヤツが私に振られたくらいで傷ついたりするものか。
 そう考えると、彼が扶巳に執拗(しつよう)に恋をするとも思えない。だが今まで以上に付きまとわれるのは我慢できない。
「告られる時でいいのね」
 そう念を押した時、遠くでチャイムが鳴った。腕時計を見ると。始業五分前。
「やばっ!」
 慌てて駆け出す。後ろ手にヒラヒラと手を振って、そのまま公園を飛び出した。
 その姿を見ながら、クピドは力なく肩を落とした。
「心を読み違えるなんて、私もまだまだ未熟ですね」
 そう言うと、何もない空気の中から真っ赤な風船を取り出す。そうしてチョコンと腰をかけると、そのまま天へと上がっていった。




 ポトッ
 この時間、何度目のメモだろうか?
 扶巳はもう篠原を振り返ることなく、机の上の紙をつまんだ。今までのものは、すべてスカートのポケットにしまっている。授業が終わったら捨てるつもりだ。
 しつこいなぁ
 つまんだ指をまたスカートに入れようとして、ふっと手を止めた。
 アイツって、どんな風に女をクドくのかな?
 ちょっとした好奇心だった。
 きっとチョーキザな言葉でも並べて、女の子をその気にさせてカッコつけてんだろうな。
 そう考えると面白くなった。ちょっと迷ったが、結局は丸められた紙を丁寧に開いていく。
 中に書かれた文字は、意外に短かった。
『遅刻したの、オレのせい?』
 思わず振り返ろうとして、寸でのところで思いとどまった。
 自分が声をかけたから、だから扶巳が遅刻したと思っているのだろうか? 責任を感じているということだろうか?
 まさか
 扶巳は軽く頭を振る。
 アイツに、そんな思いやりなんてないに決まってる。
 すると、さらに次のメッセージ。
 今度は躊躇(ためら)うこともなく開いてみる。
『そんなにオレのこと、嫌い?』
 目の前が真っ暗になった。だが、何だか笑えてきた。
 嫌われてんの、知ってたんだ。嫌われてるの知ってて声かけてくるなんて、上等ジャン。
 優越感が胸の内に広がる。少し苦しくもあり、でも心地よい。
 さらに続きのメッセージ。
『話したいことがあるんだけど。放課後 技術室に来て』
 扶巳は慌てて紙を丸めた。さすがに心臓が激しく波打つ。
 はやっ! もう告白タイム?
 だが、意外だとは思わなかった。
 女ったらしの篠原のことだ。こんな風にして次から次へと女に手を出しているのだ。
 少しだけ、胸が苦しくなった。嫌悪感を感じているのだと思った。
 ふふんっ
 思わず口元が緩む。
 どうせだからコテンパに振ってから記憶をリセットしてやるか。
 湧き上がる笑みを、扶巳は必死に噛み殺した。




 クピド=キューピッドのラテン語名

 昼休みの図書室で知った。
 【クピド】で調べても出てくるとは思わなかったので、それがまず意外だった。
 ラテン語ってのは古代から中世にかけてヨーロッパで共通の文語として使われていたもの。現在の英語やフランス語・イタリア語・スペイン語・・・などなど、ロマンス諸語の元になった言葉でもあるらしい。だから、あいつの名前は本来はクピドが正しいワケであって、キューピッドってのはクピドが変形したものだから、あいつにとっては・・・
 そんなことを頭の中でぶつぶつと考えながら、技術室の扉を開ける。
 午後の日差しが部屋を照らし、暗い廊下から入ってきた扶巳を一瞬だけ眩ませる。錆びた油やオガ屑の匂いが鼻をつく。 ほとんど使ったことのない教室というだけで、少し不安になる。これが、篠原の手口なのだろうか?
 いつもの扶巳なら、無視していたに違いない。だから篠原の言葉は、当たり前と言えば当たり前だ。
「来てくれないかと思ってたよ」
 窓際に座る彼。長い足を組み、控えめに染めた髪の毛が柔らかく揺れる。春の日差しのように、その笑顔は暖かい。胸が締め付けられるようだ。
 扶巳は、唇を噛んだ。
「そんなところに立ってないで、座ったら」
「話って何?」
 相手は筋金入りのプレイボーイだ。ペースに呑み込まれたくない。
 篠原はクスッと笑った。
「お前、わかり(やす)いな」
「わかり(にく)いよりマシでしょう。笑ってないで、話ってなによ!」
 扶巳の怒鳴り声に、篠原の笑みが消える。黙って、その瞳を見つめる。
「なんで、そんなに嫌うわけ?」
 表情が、まったく読めない。怒っているのか、呆れているのか、それとも悲しんでいるのか。篠原の顔には、何の表情も見て取れない。
 扶巳は焦った。そんな表情を見せる篠原など、扶巳は知らない。
 こ こんなの、演技よ。いつもそうやって巧みに女の気を引いてるんだ。
 自分に言い聞かせ、平静を装う。
「あんたの、そのチャラチャラした態度が嫌いなのよ」
「チャラチャラしてるか?」
「してるわよ。いっつも女の子に囲まれていい気になってさ」
「別にいい気になんて、なってないよ」
「どこがっ!」
 はき捨てる。
「女の子に囲まれてニヤニヤ喜んでてさ。いやらしい! バスケ部のエースだからってちやほやされて。自分がすべて正しいみたいな態度でさ。他の人間を見下してるその態度が嫌いだってのっ!」
 自分でもよくわからない。告らせて振ってやる。ただそれだけのつもりだった。こんなこと言うつもりなどなかったのに、最後はほとんど怒鳴り散らしていた。両手に拳を握りしめて、篠原なんて見ていない。脳裏には、毎日見る篠原の姿が浮かぶ。
 いつも笑顔で、どの女の子にも優しく、誰からも好かれ、来る者は拒まない。成績は優秀で容姿にも非がない。バスケをやらせれば右に出る者はおらず、体育館を駆け回る姿には、男ですら感嘆の声を漏らす。
「別に、自分がすべて正しいだなんて思ってないけどな」
「思ってるわよっ!」
「どうしてわかる?」
「態度でわかる」
 腰に手を当て一歩前へ出る。篠原も負けじと立ち上がる。
「少なくとも、あんたは私をバカにしてる」
「してねぇよ」
「してるよ。私のこと、ガリ勉のつまらない女だと思ってるでしょう。男っ気のない可哀想なヤツだと思ってるでしょう。だからそうやって、いっつもからかってるんでしょう。私のこと何にも知らないクセに、そうやって人をバカにして楽しんでるのよ。あんたはそういうヤツよ」
「なんでそうなるんだよっ!」
「あんたの態度がそう言ってるっつーの!」
 バンッ!
 扶巳の怒鳴り声にも負けない派手な音。思わず体を震わす。見ると、片手で机を叩いた篠原の目には、怒りが浮かんでいる。
「っざけんなよ」
 その声は低く静か。だが、地を這うように扶巳を包む。
「態度態度って。結局お前が勝手に解釈してるだけのことだろう!」
「でっ、でも、間違ってない」
 勢いに負けまいと、必死で言い返す。
「なんでわかんだよっ!」
「それは」
「お前が勝手にそう思い込んでるだけだろう! オレに直接聞いたワケでもねぇのに、勝手に決め付けてるだけじゃねぇーか。お前だって、オレの事なんか何にもわかってねぇのに、わかったフリしてんじゃねぇーよ!」
 ズカズカと近寄ってくる。扶巳は慌てて後ろへ下がった。構わずどんどん迫ってくる。教室を飛び出そうにも行く手を(さえぎ)られ、逃げるように部屋の隅へと追い込まれた。振り返ると、もう手の届く距離に相手がいる。
「オレがお前をバカにしてた? そう思ってんなら、なんでオレに確認しねぇんだよ」
 怒りに震える表情が、突然ふっと和らいだ。その瞬間、扶巳の中で、何かがストンっと落ちるのを感じた。つっかえていたモノが外れたような一方で、胸は締め付けられるように、腹は押さえ込まれるように苦しい。
 真っ黒な瞳がこちらを見下ろし、唇がキュッと閉まる。胸板の厚さは制服の上からでは分かりずらい。だが扶巳は、その鍛えられた身体を知っている。
 胸が苦しい。
「なんでオレのこと避けるんだよ?」
 胸が苦しい。
「なんでそんなにオレのこと嫌うんだよ?」
 胸が苦しい。篠原を見ていると、苦しくて苦しくて、たまらなくなる。
 嫌いだ。篠原なんか嫌いだ。だから見ていると苦しくなるのだ。そうに決まってる。
 なぜ確認しないのか?
 だって確認なんて、する必要ないじゃん。
 篠原が私のことをバカにするから、だから私は苦しくなるんだ。そうに決まってる。
 瞬きをするたび、瞳の中の光が揺れる。見ているだけで、胸が苦しくなる。
 見てはいけない。見てはいけない。見ると、胸が苦しくなるから。
 どう必死に自分に言い聞かせても、例えば体育の授業などで、知らずに篠原の姿を追っている。笑顔を見ると、胸が苦しくなる。
 どうして笑うの? どうしてそんな風に笑ってくるの?
 だが、確かめることなんてできない。疑問をぶつけることなんてできない。
 笑顔を見ると、胸が苦しくなる。こんな苦しいの、耐えられない。
 嫌いだ。そう言い聞かせなければ耐えられない。
 会うたびに、胸が苦しくなる。耐えられなくて目を背ける。だが、それでも彼は扶巳を見ると、笑ってくれる。
 篠原なんか、大っ嫌いだっ
「なぁ、牧野」
 両肩を捕まれて我に返る。逃げようとするが、そのまま壁に押し付けられる。動けない。
「そんなにオレの事、嫌い?」
 扶巳は生唾を呑み込んだ。その瞳が眩しくて、涙が出そうになる。
 顔を(のぞ)かれる。必死で顔を背ける。
 決して叶わない。
 それを認めることすら怖かった。
 彼が、女の子と遊び歩くような男ではないことを知っている。エースと言われても、謙虚に練習に打ち込んでいることを知っている。人を馬鹿にしたり見下したりしない男であることも、知っている。
 篠原がどんなに素敵な人間であるかを、扶巳はどうしようもないくらいはっきりと知っている。だからこそ、認めなくなかった。だって認めれば、自分の醜さが鮮やかになるから。だから、それすらも認めたくない。
 何もかも知りたくない。聞きたくない。認めたくない。
 自分は自分に嘘をつき、自分から逃げていた。
 色の薄い唇が開く。
「オレ、お前が好きだよ」
 血が滲むほどに唇を噛み、必死に涙を耐える。こんな顔を、見られてはいけない。
 醜い・・・ 汚い・・・ だけどそれは、篠原じゃなくてサイテーの私。
 私は篠原が好きだけど、私は自分を許せない。だって、今までずっと嫌ってきたのに、今さら好きだなんて・・・
 扶巳は愕然(がくぜん)と、だがホッとしたように宙を見つめた。
 篠原が好きだったのか?
 呆然と右手を上げ、人差し指を立てた。篠原は気づいていない。
 私は、篠原のことが好きだったのか・・・
 静かに息を吸う。
 篠原、私のことみんな忘れちゃう。もう廊下で会っても、声なんてかけてくれない。
 でも、それでいい。そうなれば、もう苦しくなくなる。コイツが笑ってくれなければ、胸が苦しくなることもない。
 本当に?
 問いかけるもう一人の自分を、頭の中から追い出す。
 好きだったのだ。
 だが、もともと叶わない恋なんだ。篠原が私のことを忘れてくれれば、そうすればスッパリ諦めもつく。だいたい、私のこと好きだなんて言う篠原、篠原じゃないよ。これはホントの恋じゃない。
 ゆっくりと、人差し指を胸に当てた。ゆっくりと、力強く。
 これで終わり。
 扶巳は俯いた。
「なに?」
 怪訝(けげん)そうな声に、ハッと見上げる。
 篠原は少し離れて、扶巳の指を見つめている。
「何? これ」
「えっと・・・」
 どう説明してよいのかわからず口ごもる。
「牧野、お前って、男の胸に興味あんの?」
「なっ」
 慌てて右手を引き、そのまま両手で頬を覆う。その表情を見て、篠原は吹き出した。
「お前って、ほんっとわかり易いよなぁ」
 扶巳の表情に笑いがこみ上げて来たらしい。ふらふらとよろけながら腹を抱える。その顔は子供のように幼く、少し眩しい。
「ねぇ、ちょっと」
 困惑する。顔が熱い。
 どういうこと? 篠原、私のこと何にも忘れてない。
「もともと、あなたのことが好きだったのですよ」
 耳元で囁かれる。
 振り仰いでも、誰もいない。でも、その甲高い声は、間違いなくクピド。
「そもそも私の恋の矢なんて、関係なかったのですよ。彼はすでに、あなたに恋してたのですよ」
「え?」
 見ると、篠原はようやく落ち着いてきたようだ。目に涙を溜めたまま荒れた呼吸を整えている。
「矢の力など、もともと効いていなかったのですから、消すような効力もないということですね」
 篠原が、本当に私に?
 扶巳は力なく座り込んだ。
「おいおいっ」
 篠原が近寄る。膝を折って顔を覗き込む。
 なにこれ? なにこれ? どうしてこうなるワケ?
 結局何がどうなってるのよ?
 いろんな言葉が浮かんできて、頭が混乱してワケわかんないっ
 視界の隅に、赤い風船が見えたように思えた。子供がニッコリ笑って手を振っている。が、それは幻であったかのように、入り込む日差しに溶け込んだ。
「牧野?」
 心配そうに見つめるその顔は、いつもの篠原と変わりない。
 こんなのアリ? こっちは覚悟決めてたってのにさ。
 腹立だしさに、涙が出た。篠原が慌てた。
「ごめん、牧野。迷惑だったか?」
 扶巳は何度も首を横に振る。
「そんなんじゃないよ」
「好きなんて言って悪かった。こんなこと言うつもりなかったんだけど・・・、ただ、何でそんなに嫌われてんだろうって思って・・・」
 思わず告白してしまったという自分の行動を思い出し、恥ずかしくなったのだろうか? 篠原は、落ち着きなさ気に目を泳がせる。
 扶巳は、また首を横に振る。
「私も好き」
 言ってみて、嬉しくなった。好きでいることがこんなに嬉しいことだなんて、思ってもいなかった。
 でも、こんな私でいいのかな?
 だって私、最後まで逃げてた。篠原の記憶を消そうとしてた。
 あまりにも長い沈黙が流れ、上目遣いに見上げる。
 唖然と見つめる黒い瞳。その瞳が、無言でこちらに問いかける。
 マジで?
 だが扶巳が答える前に、篠原は口元を緩めた。
「マジだよな?」
 もう恥ずかしくなって(うつむ)こうとするのを、篠原の手がそっと止めた。そのまま、唇が触れた。
 驚いて見開く両目に、満面の笑みが(ささや)いた。
「大好きだよ」
 嬉しくなって、また涙が出た。
 もっと素敵な、自分になりたい。




== 完 ==


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