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ゴミ葬
誘木 溟

 扉を開けると、その音は一層大きくなった。音はまだいい。問題はこの臭い。雨が降ると、室内にまで進入してくる。 カラスは朝からウルサイし、散々だ。
 音がミシミシと響く階段を、うんざりしながら降りていく。下まで降りきると、一際大きな声が聞こえてきた。
「なんだこりゃ? これもゴミか?」
 思わず見ると、市の清掃員の手には黄色いリボンの花束が握られていた。リボンと同じく黄色い花びらと、 それを引き立てる白のカスミソウ。大事に扱えば、まだ一週間はもちそうな、新しい花束だ。
 清掃員は少し首を傾げたが、大して躊躇うこともなくポイッとゴミ収集車へ投げ入れた。 回転板に巻き込まれた花束は、くしゃくしゃりっ と潰れた。


「え? 本当ですか?」
「お前なぁ、こんなウソ、俺に言えると思うか?」
 目の前の男は、腰掛けた椅子に背をもたれてグルリと首をまわした。
「だ、だってアスピルって言ったら、あのアスピルでしょう!」
「『あのアスピル』って、なんだよ」
「だからっ」
 聡子の声が上擦る。
「最近あっちこっちにドッカンドッカン店増やしてる大型ショッピングセンターの、あのアスピルでしょう?」
「そうだよ」
 いい加減うんざりしてきたのか、男は実にかったるそうだ。
「なぁんでそんなところが、ウチに仕事を依頼してくるんですかぁ!」
「お前なぁ! それってどういう意味だよっ」
「す すみません」
 上司に咎められて、ようやく聡子は言葉を切る。
「確かにウチは支店もない小さな会社だけどな。まぁ、それだけ丸宮病院の仕事のウケがよかったってコトかな?」
「でも・・・」
 聡子はまだ信じられない。
「あそこの今までのシステム、サコエンなんだよ」
「サコエン? って、迫田エンジニアリングですか?」
 ここ数ヶ月マスコミを賑わせている会社だ。詳しくは知らないが、何か不正をしたらしく、テレビで社長が謝罪をしていた。 得意先は激減するだろう。社員はいい迷惑だ。
「やりたくないんなら、いいんだぞ」
「や・・ やりたくないなんて言ってません!」
 聡子はバンッと机を叩いた。上司はニヤリと笑う。
「じゃあ早速だけど、明日のアスピルとの打ち合わせに出てくれ。今日もこれから打ち合わせがあるんだが、 お前は丸宮病院へ行かなくちゃならんから、明日でいい」
「いえ」
 キッパリと答えた。
「今日の打ち合わせに、私も出ます」
「え? だって丸宮病院は・・」
「田中くんに任せます」
「田中に! お前、アイツはまだ入って二週間だぞ! 一人で行かせるのか」
「彼もそろそろ一人で動いてもらわないと」
 そう言うと聡子は携帯を取り出し、田中の番号を押した。

「へー、すごいじゃん」
 携帯の向こうで敦が喜ぶ。声を聞くだけで幸せになれた。
「じゃあ、お祝いしないとな」
「えー! そんな大げさな。別に昇格とかしたワケでもないんだし」
「ははっ、それもそう・・あっ、ヤベ。仕事に戻んないと」
 慌しく携帯が切れた。
 ツーッツーッと、無情な音をたてる携帯。聡子は苦笑した。
「まったく」
 敦は医者だ。丸宮病院の仕事で知り合った。新米で忙しいが、とても優しい。こんな人が世の中にいたのかと、 聡子は今でも信じられない気持ちでいる。自分にこんな素敵な彼氏ができるなんて、思ってもいなかった。
 がんばって、よかった。丸宮病院の仕事を、断らないでよかった。
 自分は人生の壁を一つ乗り越えたのだという満足感で、いっぱいだった。
「さて」
 気を取り直して携帯を鞄にしまうと、ビル郡に囲まれた交差点へ向かう。タイトなスカートにはだいぶ慣れた。 波を打つ風が、伸ばしかけた聡子の髪を巻き上げる。頭を抑えて見上げる巨大モニターには、最新ヒット曲のプロモーション。 大音量に車のクラクション。映像の横には、ニュースを知らせる電光掲示板。
『ゴミ袋の中から新生児の遺体発見』
 信号が青になり、聡子は歩き始めた。

「わからん」
 目の前でビールを飲み干した敦が、憮然とした表情で呟く。
「まだ産まれたばっかりだぞ」
「・・・だね」
 聡子は気のない返事。飲み屋の喧騒の中では、聞こえなかったかもしれない。座っている畳へ視線を落とす。
「へその緒の処理もしてないってさ。ありゃあ自宅で秘密に産んだんだな」
「そんなことできるの?」
「できるって、昔はみんな自宅で産んでたんだぞ」
「そりゃあまぁ、そうだけど」
 聡子が言ったのはそういう意味ではなく、秘密に出産などできるのだろうか? という意味だ。
 バカなやり方だ。秘密にしたって、バレるもんはバレるのに。
「ったく、今の若い女は何を考えてるんだか」
「若い女?」
「子供を捨てるなんて、どうせ十代の若い女に決まってるさ」
 尊い命を救う医者の身としては、こういった事件は納得できないらしい。中絶にも反対意見。集団自殺やテロの話題でも、 彼はいつもより口数が多くなる。
放っておけばいいのに
 聡子は心の中だけで呟いた。そんな暗い話題で、敦との貴重な時間を台無しにはしたくなかった。視線を上げる。
 こういう敦も好きなんだけどね。
「病院の機械、順調?」
「ん? あぁ、聡子の入れたヤツ?」
 突然話題を切り替えられて、敦は目を丸くした。が、特に深くは考えなかったらしい。そういう人なのだ。
「オレはよく知らないけど、かなりイイって、外科のヤツは言ってたよ」
「そう。最近そっちに行けないから大丈夫かなって」
「機械搬入した後でも気にかけなきゃいけないなんて、大変だよな」
「お医者さんだって、術後の経過まで見るのは当然でしょう?」
「まぁ そうだけどな」
 納得したように唐揚げを頬張る。
「どんな仕事にしろ、やったらそれで終わりってワケにはいかねぇんだよな」
「そういうコト」
「でもそれって疲れるぜぇ」
 ぺろっと舌を出す敦。二つ年上なのに時々かわいい。
 少し酔ったような優しい目。上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、足は胡坐をかくでもなく、ダラッと中途半端に伸ばしている。 白衣の敦からは想像できない。できないからうれしい。他人の知らない敦を、自分だけ知っている。そんな敦を見ているだけで、 聡子は幸せになれる。
「患者は増える一方だからな。せめて家ではのんびりゆったりしたいよ」
「してるじゃん」
「そうじゃなくってさ」
 そう言うと、敦は少し赤い頬をすっと、聡子に近づけた。
「自宅ではのんびり、かわいい奥さんと寛ぎたいってコト」
「え・・」
 喧騒が消えた。何も聞こえなくなった。敦の瞳以外、何も見えなくなった。
 一瞬前まで眠そうにしていたその瞳が、今ははっきりと聡子を見つめている。その瞳の奥の一番中心に、聡子の瞳が映っている。
「結婚・・してくれるよな?」
 窒息するかと思った。

 送っていくと言われたが、聡子はそれを断った。一人で落ち着きたかった。敦も無理強いはしなかった。 プロポーズは受けたのだ。敦も内心、一人でほっとしたかったのかもしれない。
 敦との結婚を考えたことは何度もある。でも、もし結婚するとしても、それはもっとずっと先のことだと思っていた。 三十歳にはまだ遠いし(と思ってるし)、結婚願望もそれほど強くはない。正直おどろいた。
 敦はようやく研修期間を終えたばかりだ。まだまだ勉強しなくてはいけないと言っていた。
 そんなに忙しい中で、自分との結婚のこともちゃんと考えていてくれたのかと思うと、聡子の頬は自然に緩んだ。
 飲み屋でプロポーズなんて、敦らしいや。緊張してたのかな? ふふふっ
 駅を出て、いつもの帰り道を歩いた。結婚すればこの道ともお別れになる。そして、あのボロアパートとも。
 一般的にプログラマーは稼ぎが良いと思われがちだが、それは一部の実力者だけであって、その日暮らしをする者も多い。 最近は技術者を社員として採用する会社も少なく、何か仕事がある時だけ臨時で契約するスタイルが取られる。 だから、そういう契約を取ってきて社員を派遣する会社が出てくる。聡子の勤める会社もそれになる。 どこからか一つ仕事が入るたびに、社員同士で争奪戦になる。が、仕事というのはデキル人間に集まるもの。 忙しい者は昼夜を問わずに走りまわるが、暇な者は一週間何もしないこともある。もちろんそういった者に、収入はない。
 聡子に丸宮病院の仕事がまわってきたのは、先輩が体調を崩したりたまたま担当者のウケが良かったという、 偶然の重なりであった。
「うまくやりやがって」
 そんな陰口を叩かれていることを、聡子は知っている。確かにそうかもしれない。だが、偶然は努力の上に成り立っている。 聡子はそう思っている。
 今のこの幸せは、私の努力の・・努力の賜物であって、何もしないでただ人を羨ましがってるだけの人間には、 絶対に味わうことのできないモノなんだ!
 右手をギュッと握り締める。
 大声で叫びたいのを必死にこらえる。「幸せ」という文字に反応するかのように、敦の顔がパッと浮かび上がった。 同時に、妙な感覚に包まれた。優越感? 誰に?
 ふっと足を止める。
 結婚したら、今の仕事はどうなるんだろう? 続けるのだろうか? 辞めるのだろうか?
 飲み屋を出てからずっと結婚後の生活をイメージしていたが、その中には、働く自分はいなかった。
 自分でも意外だった。
 今までひたすらに仕事に打ち込んできた自分が、結婚ごときであっさり身を引こうとしている。
 どうして?
 妙な感覚は急激に聡子を包む。心地良いようでもあり、不快でもある。
 やだな〜
 眉をしかめながらアパートへ向かうと、すぐ目の前で足を止めた。
 赤いパトライト。
 警察?
 首を傾げる聡子の姿を見て、中年の女性が近寄ってきた。アパートの大家だ。
「おばちゃん。何これ? 警察?」
「そうなんだよぉ」
 女性は、さも迷惑そうに片手を振る。
「ゴミ袋から赤ちゃんの遺体が出てきたってヤツ。あのゴミ袋。ここいらのルートを通る収集車が集めたゴミ袋なんだってさ」
「え! マジ! ここに捨てられてたの?」
 事件の詳細は、インターネットで知った。
 聡子の素っ頓狂な声に、女性は慌てて口を押さえる。
「声がデカイって!」
 しかし聡子の声はバッチリ警察にまで聞こえてしまったらしい。
「失礼ですが・・・」
 男性が二人、こちらに歩み寄ってきた。
「こちらの方は?」
「あ・・えっと、この人はアパートの・・」
 大した質問でもないのに、女性はやたらとうろたえる。まさか、おばちゃんが犯人でした、ってオチはないよね?
「川島聡子です。この方のアパートに住んでます」
 おばちゃんのうろたえぶりを見て、こっちはすっかり冷静さを取り戻してしまった。サンキュー おばちゃん。
「川島さんね。失礼ですけど職業は?」
 家族は? 一人暮らし? 今日はこんな時間までどちらに? などなど、 事件に関係あるのかないのかわからん質問に答えさせられる。 どうやら本題は「今週の火曜日から今朝までの間に、この辺りで不審な人を見かけませんでしたか?」 「ゴミ袋を持っていた人で変わった人を見ませんでしたか?」のようだった。
 別に見ていないからそう答えた。
 どうやら、このアパート前のゴミ置き場に遺体が捨てられた、というワケではないようだ。 ただ、問題のゴミ袋を乗せた収集車はここにも寄ったので、「候補」の一つではある。
 ごくろうサマです。でもさ、ゴミ置き場にゴミ袋持ってくるのは当たり前だから、不審な人って言ってもなぁ。
 最近はゴミの分別にうるさくて、中身のわかる半透明の袋が指定化されている。 しかし遺体は他のゴミに包まれるようにして入れてあったらしく、強烈な腐臭がなければわからないものだったらしい。
 チラリとゴミ置き場へ目をやった。そこに、遺体の入ったゴミ袋を想像してみた。が、大した想像はできなかった。 遺体が入っていようがいまいが、外見はただのゴミ袋でしかないのだから、それは結局、当たり前の景色でしかない。 乏しい想像力に、今朝見たゴミ収集車の映像が重なる。あれに遺体が乗っていたのだ。
 誰だか知らないけど、バカだよな。隠してもバレる。逃げても捕まる。世の中ワリと、そういうもんだよ。
 聡子は部屋へと上がっていった。
 翌日。土曜日だというのに、聡子は七時には目が覚めてしまった。窓の外が異常に騒がしい。 覗いてみると、アパート前に数人の報道陣が集まってきていた。マイクを持っているのはレポーターだろうか?
 テレビをつけて事情を理解した。新生児を捨てた犯人が見つかったのだ。 そして同時に、捨てられた現場がこのアパート前であることも、発覚していた。

 自首してきた犯人は女性。戸田信代、二十六歳、独身。小さいながらも雑誌社を、友人数人と経営していたそうだ。 ところが、半年ほど前に突然「休暇が欲しい」と言って長期の休暇を取ったっきり、仕事場には出てきていなかった。 一度だけ海外から絵葉書が届いたので、友人たちはてっきり海外にいるものだと思っていたらしい。 早く戻ってくるように返事を送ったがそれ以後は音沙汰もなく、最近になってはもう誰もが、 彼女のことを戦力外として扱っていた。
 妊娠を知り、密かに出産するつもりで海外へ飛び出したが、出産後の子育てを考えると不安に陥った。
 二ヶ月前に帰国。つい一週間前に借りたアパートの一室で、自力で出産した。遺体は近くの丘にでも埋めようかと思ったが、 誰かに見られるのが怖くて、どこにも埋葬できなかった。父親については口を閉ざしている。
「マスコミもよく調べるよなぁ」
 聡子はリモコンでテレビのスイッチを切ると、菓子を口に放り込む。敦は仕事だ。新人には土曜日も日曜日もない。 プログラマーもなかなか休みは取れない。今日の土曜日は珍しい。
 二十六歳で雑誌社の経営をしていたのなら、仕事バリバリウーマンだったに違いない。 きっと不倫かなにかでできた子供だったのだ。
 バカなヤツ。
 そう思いながら、聡子はなぜかしっくりこない。
 なぜ彼女は中絶しなかったのだろうか? そのくらいのお金がなかったワケはない。
 彼女は、産まれてくる子供を育てられる環境にはいなかった。不倫ではなかったとしても、 たとえば彼女が仕事を続けていく上では障害になるとか。
 どのような理由にしろ、こんな事件を起こす前に中絶という手があったはずだ。 産むつもりで海外へ出ながら直前に帰国している行動からも、揺れる彼女の不安を読み取ることができる。 なぜ子育てに不安を感じながらも、中絶を選ばなかったのだろうか?
 聡子は、窓からゴミ置き場を覗いた。そこにゴミ袋を置く女性の姿を想像してみた。暗く沈んだ、思いつめた女性。 感情のない虚ろな瞳。生気を失った頬。
 警察の張った黄色の立ち入り禁止のテープ。それが風に揺れている。
 黄色の花びら・・・
 ゴミ置き場に置かれた黄色の花束。市の職員が、怪訝に首を傾げながら回転板に投げ込んだ、鮮やかな黄色。
 ・・・あの女性。
 思わず息を呑む。
 聡子は、その花束を置いていった人物の姿を知っている。
 ヨレヨレのセーターにはき古したジーパン。そう言えば、両方とも黒色だった。背は高く、 肩より少し長めの髪から覗く顔は整っていて、暗くても美人だとわかった。ゴミ置き場など不似合いだった。 だから聡子も、足を止めた。
 瞳の先には鮮やかな黄色の花束。夜の闇には鮮やか過ぎる。
 誰かからプレゼントでもされたのかな? でも捨てるなんて。
 最初は不快に思った。花束など、聡子は贈られたことなどなかった。優しい敦からも、もらったことはない。 もらいたいと切に願ったこともないが、持っている人を見るとやっぱり羨ましく思う。
 しかし、女性の顔は苦悩に満ちている。ただ一心に花束を見つめる瞳は、動かない。ゴミ置き場に置いておきながら、 その花束には未練があるように見えた。
 やがて女性は、聡子には気づくことなく、その場を去った。
 受け入れたくとも受け入れられない、そんな悲しい恋でもしているのだろうか?
 部屋に戻る頃には、少し女性に同情もしていた。

 あの人だったのか。
 聡子には、犯人はあの女性であるという確信が持てる。なぜだかはわからない。だが、間違いない。
 花束を見つめていたあの瞳。なかなか立ち去ることのできなかった、あの女性。
 彼女は、子供を産みたかったのだ。
 目の前が真っ暗になった。
 聡子は中絶したことがある。就職してまだ二年目に入ったばかりの頃だった。
 念願のプログラマーとして社会に出てはみたものの、現実の世界は厳しく思うような成果を出すことができない。 先輩に叱咤される毎日。挙句の果てに、専門学校時代からの彼氏の浮気が発覚して、あっけなく別れた。
 そんな時にやさしかったのが、上司だった。
 不倫なんてやめよう。
 そう思うようになって気持ちが冷め始めても、関係がずるずると続いた。彼は社内ではそこそこ権力があった。 仕事はほとんど彼からもらっていた。浮気した元カレを見返すためにも、もっと仕事がしたかった。
「おろせよ。なっ」
 費用を出させて、中絶した。産みたいとは思わなかった。
 産んでも育てられない。
 子供なんていたら、私の人生はどうなる。思うように仕事もできない。お金もたまらない。後ろ指は差される。 まともな結婚だってできないかもしれない。
 こんな不倫の子供なんて、いない方がいい。
 その考えに、疑問を持ったことはなかった。
 中絶後に関係は絶ったが、会社は辞めなかった。辞めることは、不倫相手から逃げることを意味しているようで、 それがイヤだった。仕事をがんばることが、不倫相手に対するいわゆる「当て付け」のようなものでもあった。 その「当て付け」が、聡子を支えた。上司のコネがなくなったことで仕事の上でも辛くはなったが、辛いほど頑張れた。 髪を伸ばすのも辞めた。パンツスーツしか着なくなった。
 やがて元不倫相手は、別の不倫がモトで退社した。その直後に丸宮病院の仕事が舞い込んできた。
 運が向いてきたと思った。
 敦とも出会った。幸せになった。聡子にとって、仕事とは幸せをつかむためのものだったから、だから結婚後は仕事を続ける必要がなかったのだ。
 聡子は今でも、正しい選択をしたと思っている。
 だが、いつもどこかに重いものが存在する。
 丸宮病院の仕事だって、最初は断ろうと思った。もし産婦人科の仕事だったら、絶対に断っていた。 敦が産婦人科の医師だったら、付き合わなかったかもしれない。
 戸田信代にとって、会社経営とはやり甲斐のある仕事だっただろう。忙しくとも楽しい毎日だったに違いない。 そんな彼女にとって、子供の存在は大きい。一人で育てるとなればそれはなおさらだ。今まで仕事に向けていた労力の半分、 いやそれ以上を子供に取られてしまう。
 しかし彼女は中絶を考えなかった。妊娠を知ったとき、産むために海外へ出た。産んだ後の生活を想像して後ずさりし、 病院へは行けなかったが、それでも自宅で出産した。子供は殺されたのではなく、死んでしまったか、 もともと死産だったのかもしれない。
 そして彼女は、消えてしまった命に、悲しみを感じることができた。
 子供を産めば、自分が苦労することはわかりきっている。それでもなお産みたいと思ったのはなぜだろう。
 それは、顔もまだ見ぬ子供に、愛情を感じるから。一つの命の尊さを理解しているから。
 私は、愛情を感じなかった。その代わりに、怖かった。だから産婦人科の仕事がイヤだった。避けたかった。
「中絶なんて、絶対反対」
 右の拳を上げて断言する敦には、絶対に知られたくない過去だ。
 愛情は感じながらも、子育てには躊躇したまま覚悟を決めることができなかった。それが戸田信代のミスだ。 子供の命を奪ったのは、結局は彼女の優柔不断さだったと思う。だが、悩むことすらせずにバッサリと命を切り捨てた私には、 罪はないのだろうか?
 中絶したことが間違いだったとは思っていない。だが、今ある幸せは、ただ単に聡子自身の忍耐と努力のみの上に存在するのではない。 犠牲となった一つの命がその陰にあることを、認めなくてはいけなかったのではないだろうか?
 戸田信代に関して言えば、すべては聡子の憶測でしかない。だが聡子の姿が、自分にばかり目を向けて心の隅では 「犯した」と思う罪から逃げているように見える。それは事実だ。必死で己の「不幸な境遇」にしがみついて、 自分を満足させていただけなのではないだろうか?
 逃げたくない
 漠然とそう思いながら、やはり聡子は逃げていた。
「バッカみたい」
 聡子は吐き捨てた。
 黄色の立ち入り禁止テープが揺れている。
「あんた! バカじゃない!」
 怒鳴りながら、両手で顔を覆った。涙なんて出なかった。悲しいワケじゃない。
「バカだ! お前バカだ!」
 バカを連発して散々怒鳴って、聡子は唐突に気が抜けた。
 でも、やっぱり逃げたくはない。
 フッと、心が軽くなった。
 開放されたような清々しさが、聡子を覆った。
 あたし、中絶したんだよね
 ゴミ置き場を見下ろした。今はない黄色の花束が揺れている。
 傍から見れば、信代は新生児をゴミとして捨てたように見える。だがきっと彼女は、そこへ埋葬したつもりだったのだろう。 決してその存在を消そうと思って捨てたわけじゃない。自分の不甲斐なさを認め、罪から目を背けようとはしていなかった。 結局は自首したし・・・
「あたしより、マシかな」
 自分も、逃げたくない。
 聡子は鞄から携帯を取り出すと、迷わずリダイヤルした。
 まだ仕事中かもしれない。でも、メールではイヤだった。
 犯人は若い女だと決めつけるような敦の言葉に言い返すこともできず、一生胸の痛みを感じながら生きていく。それってちょっと、格好悪いんじゃない?
 三回コールで、相手は出た。
「あ、もしもし。敦? 聡子だけど」
 いつものように軽く名乗ると、聡子は大きく息を吸った。




== 完 ==


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